地元に近いからと、セガレたちを連れて僕が所沢の球場にひんぱんに通っていたのは、まだ今のようにドームになる前だ。
　ある夜、僕ら４人が横１列に腰を下ろして観戦している座席のちょうど１列前に、ゲーム開始直後に３人連れの客が腰を下ろした。
　身なりのしっかりした中年の夫婦の間に挟まれるようにして、妙齢の娘さんが座る。彼女とその向こう側に座る母親の膝の上には、どうやら母娘して作ってきたらしい色とりどりの弁当が広げられた。相変わらず外野の自称応援団とやらがひっきりなしに騒音をまき散らす中、３人はなにやら耳元に顔を近づけ合って会話を交している。サラリーマン風の父親はもの静かな様子で、年齢的に見れば定年がぼちぼち近づいた頃合い。 まだ１０歳前後でじっとしていることさえままならない、ウルサいこわっぱどものセガレとタッチャンの相手をするのももどかしく、僕は目の前の３人の家族連れに気づかれないよう、非礼のないよう、それでも目を釘付けにさせられていた。
　球場の騒音はいつだって想像以上だから、ちっとも家族の会話は聞こえてこない。やがて、僕の想像力はこんな家族の物語を思い描き始めた。
　当日が、実は長年勤めあげた父親のサラリーマンとしての定年退職の日で、野球好きの父親のために母娘して企画したのが、この野球観戦なのではないか。昼間、会社で最後の挨拶を済ませた父親がいつもより早く自宅に帰ると、母娘２人がすでに外出の支度を済ませている。何事かと父親が尋ねると、こういう時の出番は娘の方が説得力が一枚上だから、「お父さん、長い間お勤めご苦労さまでした。こんな日は、家にいるとなんだかしんみりしちゃうから、お父さんの大好きな野球を見に行きましょうヨ」とかなんとか。
「さあ、あなた、上着をコレに替えれば十分なんだから、すぐに出掛けましょうよ」と、奥方。最後に娘が「私、お母さんと一緒にお弁当まで作っちゃったんだから〜」で、ダメを押して連れてきたワケだ･･････って、コレじゃまるで小津安二郎の世界か。
　そのうち、僕の最初の観察がマト外れだったことがうっすらと分かったのは、当夜の主人公は二十代後半ぐらいの娘さんで、両脇の父親も母親も野球そっちのけで、何やら娘の方をチラチラと見やる視線がどこか切ないのだ。ハハン。電車の中同様、ボールパークは格好の人間観察の場であって、そこにこんな絶好の家族連れと遭遇できた幸福に僕は感謝した。母親は何かと娘さんに話し掛けるのだが、父親の方は正面のフィールドを見据えたままほとんど会話に参加しようとはしない。それでも、真後ろにいる僕から見た父親の背中は、当夜のゲームには何も反応していなかった。不意に思いついたのは、目の前の家族の「最後の夜」というイメージで、僕の抱いた謎は勝手に氷解したのであった。
　初老の夫婦と明日にでも結婚を控えた娘の家族としての最後の思い出作りのためのひととき･･････きっと彼女は夫婦にとっての一人娘で、最愛の娘で、父親にしてみれば世間で言うところの嫁になんざこれっぽちも出したくない、いっそのこと生涯独身でいさせて自分の手元におき、蝶よ花よと可愛がり続けたい･････ところが、そうは言っても娘には娘の幸福な人生を送る権利はあるのだし、心優しい娘はそれでも「私、結婚なんかしないで、ずっとウチにいてもイイのヨ」とかなんとか言ってくれるけれど、それじゃあんまり気の毒だし･･････とかなんとかの図がハッキリと見てとれるのだ。その時僕は、あらためてボールパークには家族がよく似合うと思った。
　ハナシ変わって、大リーグ。僕のテレビ観戦の愉しみのひとつは、イニング交替のインタヴァルやファウルボールが飛び込むたびに映し出される観客の様子である。　数年前、カンザスシティのカウフマン・スタジアムだったか、あるいは前のミルウォーキーのカウンティ・スタジアムだったか、バックネット（英語ではバックストップと言う）裏に、三十代ぐらいと思われるちょいとおシャレな感じのカップルがいて、とても仲むつまじく観戦をしていたのだが、ゲーム途中でやや夕闇が迫る時間になった頃合い、女性の方がこっくりこっくりとうたた寝を始めたのだ。やや時間が経過して、再び注目してみると、どうやら彼女は彼の肩に頭をもたれかけて心地よくも安眠の場所を得ていた。何と言う贅沢！と、その時僕は思った。
　さて、シアトルでイチローのフィールディングがファンを魅了し始めた頃、ちょうどそのあたりで「ＡＲＥＡ ＃51」と言うバナーが観客席を賑わしだした。
「エリア51」とは、シアトルのライトフィールドには背番号51がいて、飛んで来るボールは何でも捕っちゃうゾ！　ぐらいの応援メッセージだ。もともとは「未確認飛行物体」がやたらに飛来する空軍エリアのことでもあるらしいけれど。
　ある日のゲームで事件が起こった。その前のゲームでもビッグ・プレイを連発し、すっかりライトフィールドはイチローの庭という風情で、そのことはファンのみならず審判の目さえも「ひいき目」にさせたとしか思えない出来事だった。
　相手チームの打者が打ったライト線への飛球によって、ファウルポール間近で急にせり出してくる観客席とイチローの伸ばしたグラブが微妙に交錯した。ファウルテリトリーにある観客席の最前列には、いかにもアメリカ人らしく中年太りした屈強の男たちがズラリと並んでいて、当然のことながら「ファウルボールは俺たちのモノ」という考え方が徹底しているから、猛然とグラブを差し出したイチローと観客席の男にちょっとした接触があったようにも見えた。イチローはジャンプをしてグラブを差し出したが、結果としては中年太りの一人の男が「スーヴェニア（おみやげ）」と呼ばれる白球を手にしたのだった。直後に背中をフェンスにもたれかけながらイチローの表情から、「そんなのないヨ。ありゃ、僕が捕れたゼ」の無言のメッセージ。すると、一塁塁審がすっ飛んできて「認定アウト」の宣告となった。　その時の僕の反応は、「ウッソ〜ッ！」に続いて「すごい！」だった。
　最初の「ウッソ〜ッ！」は「今のはファウルだヨ」であり、ふたつめの「すごい！」は、審判まで巻き込んでしまったイチローの能力の高さに対する驚嘆だった。僕の目にそれは、審判の誤審とさえ見えた。直後に何度もスロー再生された映像を見ても、あれはファウルであり、認定アウトは不適正ではなかったかと思う。
　そもそも２００１年シーズン開幕当初からの活躍で、イチローが大リーグ中の評判になっている様子は、どんなメディアを通じなくても、テレビ中継画面を見ていれば分かることだった。一塁に出塁すれば守っているファーストベースマンが、二塁に進めばセカンドあるいはショートストップが決まって何やらイチローに話し掛ける。守備交替で指定のライトフィールドに向かうイチローに、一塁塁審が話し掛ける場面にも何度も遭遇している。イチローは、大リーグ・デビューして間もなく、すぐに観客ばかりでなくフィールド内にいる人間たちの興味と関心を集めてしまったのだった。塁審までもがイチローに夢中という図があってもおかしくはなかった。
　ま、しかし、ベイスボールは審判の裁定が絶対。かくして、得意満面だった観客席の男は、その瞬間からガラリと立場が変わるのであった。大リーグのボールパークでしばしば見られるのは、観客の退場劇である。１９９８年、年間７０本のホームランをかっ飛ばしたマーク・マグワイアの第６６号のホームランにもいわくが発生した。確か遠征先のミルウォーキーでのことだったはずなのだが、左中間に飛んだ飛球は、その後何度スロービデオ再生されてみても明らかなホームランだったはずなのだが、その頃になると全米中がビッグ・マックのホームラン記録の更新に狂騒していて、驚くほど高値が付くに違いないホームランボールの争奪戦も白熱の一途だった。そんな中、ある青年が差し出した手がホームランの境界線を越えたと判断され、即刻退場処分となったばかりか、マグワイアの一打は記録上ツーベースヒットとなったのである。なぜ、そんなことを僕が覚えているかと言うと、当日の実況アナウンサーのコメントが歴史に残るものではないかと興奮した挙げ句、ホームランどころかその名実況までもが雲散霧消してしまう結果になったからだった。
　実況は、こんな内容だった。
「マーク・マグワイア、打ちました。今、ゆっくりと国道６６号線をドライブしていきます！」
　これは、昔からテレビドラマにもなり、さらにはその主題歌が有名な「ルート66」という曲名をもじった、かなりおシャレな表現で、僕なんぞ聞いた瞬間に、そのアナウンサー氏がじっくりと考え抜いた表現に違いないと思ったものだ。
　余談なのだが、僕が思い切りズッコケたのは、その次のゲーム、今度はマグワイアの本拠地セントルイスでゲームが行なわれ、またまたホームランをかっ飛ばしたのだが、前日に聞いたまんまの「６６号実況」がされたのだった。
　ところで、イチローが飛びついた結果「認定アウト」と裁定されたことによって、件の中年男性はゲームを続けて楽しむどころの騒ぎではなくなるのだった。大リーグのボールパークのほとんどは、日本の球場に比べてファウル・テリトリーが極めて狭い。より身近に、より同じ目線でプレイを楽しむために、とりわけ内野から左右のファウルポール近辺までの観客席はフィールドに大きくせり出している。
　面白いのは左右のコーチャーズボックスからやや外寄り、一塁線と三塁線をきわどく抜ける打球が行き着く場所に、大抵の場合観客席があって、そこは飛んで来るボールを奪うことのできるいわば「スーヴェニアの特等席」でもある。そこに居座る連中は決まってグラブ持参だし、時にはグラウンドボールを捕ろうと勢い余ってフィールド内に落っこちてしまう。
　ベイスボールを見ていてつくずく思い知らされるのは、観客もベイスボールに参加しているのだ、という単純な事実なのだ。もし、三塁線を抜けたと思えたボールがファウルであれば、「スーヴェニアの特等席」の観客は勢い余ってフィールド内に倒れ込んでまでキャッチしたとしても、それはナイス・キャッチと賞賛される。万が一、塁審の判定が「フェア」の場合、ボールは当然インプレイと見なされ、そのボールに触ろうものなら「即刻退場！」。それが大リーグのルールなのである。僕の見ているゲームでも、年間数名の観客がこれで退場処分を食らっている。
　気の毒だったのはイチローの能力の高さを買われて「認定アウト」の裁定が下された結果「インプレイのボールに接触した」と見なされた中年男で、早速球場係員が向かう。
「お客さん、困りますよ」
「いや、だって、アレは俺の座席で捕ったんだから、決してイチローの邪魔なんざしてねぇヨ。だいいち俺はイチローのプレイが見たくてやって来たんだゼ」
「いや、そうは言っても審判が決めたことだし、イチローが邪魔さえなけりゃ俺は捕れたって顔をしてたんだから、やっぱりあんたが悪い」
　とかなんとかいう会話があったのだろう。やがて、なんとなくモタモタしている彼の横に、これもまた大柄な女性が近づき、さらには２人か３人かの子供が後ろの席を立って荷物をまとめだした。あれは、どう考えても家族連れで、お父ちゃんとしてはファウルボールと確信し、自分の子供たちに手柄バナシとともにプレゼントできるスーヴェニアを手に入れたと思った瞬間の悲劇ではあった。
　この光景も、いかにもイチローが所属するアメリカ大リーグならではのものなのだ。