●イニング７：秘密の記録ノート
　それにしても＜百科事典のハル＞の長期故障者リスト入りは、僕らにとって日に日に深刻な問題になっていった。もうハルが姿を見せなくなって十日が過ぎた。その間、僕をはじめ数人は家に帰ってから自分の成績を日記代わりにメモしていたけれど、＜やぶにらみのビニー＞や＜バズーカのマーク＞などピッチャーとヒッターの両方でプレイする連中、さらには個人成績に無頓着と言うよりも数字に弱い＜太っちょラムゼイ＞なんかの記録保存が、だんだんと怪しくなってきているのだった。とくに＜太っちょラムゼイ＞の記憶力には信用がおけなかった。
　なにしろ昨日まで五十五打数十一安打と言ったばかりで、今日の打撃成績が六打数二安打なのに、帰りがけには自分は六十打数十四安打だと公言するのだから。ああ、ハルが早く戻ってきてくれたら･･････。そんな話をみんなでしていたら、いつものように両腕を胸の前で組みながら監督のような足取りで近づいてきた＜唾吐きケイシー＞が言った。
「安心していいよ。毎日アタシがハルに報告しているから」
　そうか。そうだったんだ。僕らには＜唾吐きケイシー＞がそこにいる理由のすべてが分かった。確かにケイシーは一日も休まずに＜プアマンズ・フィールド＞に現れ、僕らのプレイが終了するまでベンチに腰を下ろして眺めていた。いくらケイシーが野球好きとは言ってもやっぱり女の子で、一緒にプレイに参加する訳ではないのだから、毎日飽きもせずによくベンチで座っていられるものだと考えたのは、決して僕だけではなかったはずだ。いまや病気でベッドに横たわる公式記録係ハルのために、＜唾吐きケイシー＞はスカウティングリポートの提出役を果たしていたのだった。結局、＜唾吐きケイシー＞は僕らのシーズン開幕直後からのすべての記録を、家に帰って病床のハルに伝えていたのだった。
「ねえ、ケイシー。それじゃ今まで何か紙の切れっぱしに記録をつけていたの？ オレはちっとも気づかなかったぜ」
＜強打者マーカス＞が怪訝そうに尋ねた。
「ふん。そんな必要ないさ。じゃ、これまでハルはメモにとっていた？」
まるでハルと一卵性双生児みたいに似ているいとこのケイシーがそう言うと、僕らは何も返す言葉がなかった。ハルがこれまで＜プアマンズ・フィールド＞に記録ノートを持ち込んだことは一度もなかったのだ。それこそが＜百科事典のハル＞の真骨頂なのだった。ハルの驚くべき記憶力に対する僕ら全員の尊敬と信頼が寄せられたのも、筆記に頼らない暗記力があったからなのだった。
　ところで以前、僕は一度だけハルに尋ねたことがある。すべての生涯記録をメモなしにずっと暗記しているのか、と。他のメンバーには内緒にすることを条件に、ハルは僕だけに教えてくれた。
「僕の机の引き出しの中には、もう十冊近くの記録ノートがあって、僕は毎晩、帰ってからそれに書き込んで、ついでに生涯打率や防御率なんかを計算するんだ」
　僕はその話を聞いた瞬間に、一度でいいから記録ノートを見せてくれと頼んだ。
「だめだよ、ナズ。いくら親友だと言っても、それだけはノーだ。だって、この＜プアマンズ・フィールド＞の仲間たちにとって、決して目に見ることのできない僕の記憶だけがすべての記録だし、野球がヘタな僕のたった一つの取り柄なんだもん」
　仲間たちの中でただ一人、シーズン五十打席にも満たないほどしかプレイしないハルにとって、彼の膨大な記録は、僕らと共に過ごす野球のすべてなのかも知れないと、僕はその時思った。
「それにしてもここに来た最初、僕らの名前だって知っているはずがなかったんだから、その時はどうしてたんだい？」
＜バズーカのマーク＞が、ケイシーに尋ねた。
「アハハ。それはネ、秘密にしておくよ」
＜唾吐きケイシー＞が珍しく女の子っぽい笑い声を上げた。
　僕らの中で一度もハルを見舞いに行こうと言い出すものがいなかったのは、ハルがそれをおそらく嫌うだろうと予測ができていたからだった。以前、数日間寝込んだハルを数人で見舞った時、ハルはまるで弱々しい自分を見られることを恐れるように、部屋のドアを開こうとしなかった。僕にはハルのそんな性格が何となく分かる気がしたし、身近な存在になればなるほど、まるで一卵性双生児みたいにハルに似ている＜唾吐きケイシー＞が一緒にフィールドにいるだけで、どこか安心感のようなものがあったのだ。
「ハルの様子はどう？」
「うん。今朝はばかに顔色が良かったよ」
　たった一言だけのケイシーとの会話で、僕らはいつも次の日にはあのハルがやって来るに違いないと安心してしまうのだった。
「ねえねえ、ケイシー。それじゃ、僕の昨日までの打率はいくらになったか、キミは知ってるかい？」
　最初に言い出したのは＜やぶにらみのビニー＞だった。
「打数六十二、安打数二十四、打点十三、ウォーク二･･････。ハルに伝えたら、その成績にちょっと驚いてた。そんなに調子がいいのかってネ。ええっと、だから打率は三割八分七厘だネ。それからピッチングの方は三十七投球回で被安打五十二、三振二十三、ウォーク十七、失点は二十八だから防御率は昨日まで六・八一だネ」
　まるで、ハルがそこにいるようだった。やっぱり一卵性双生児みたいに頭の中身までそっくりなのに違いなかった。
「ワオッ。じゃ、今度は僕のを教えてよ」
　続いたのは、今シーズン投打ともにひどいスランプの＜強打者マーカス＞で、聞いているみんなが唖然とするほどの惨めな成績が報告された。
「気にするなって。まだシーズンは始まったばかりだし、去年のシーズン序盤も似たようなものだったってハルが言ってたよ」
　公式記録係ハルから預かった成績を伝言する＜唾吐きケイシー＞は、ついでにそんな慰めの言葉もかけるのだった。それにしても、打率六割の強打者の今シーズンの成績は、本当に目を覆うばかりなのだが、それでも辛うじて三割を越えているのだからまだマシな方だ。僕など、まだその時点で二割に到達していないのだから。結局、その場に居合わせたメンバーすべての個人成績が、ハルと同じ驚異の記憶力を持った＜唾吐きケイシー＞の口から告げられるのだった。そして、僕以外のメンバーすべてが知らなかったハルの記録ノートの存在が、初めて明かされたのだった。
　ハルは、毎日＜プアマンズ・フィールド＞から帰ってくるケイシーを今か今かと待ちわび、ベッドに横たわりながらノートを開いている。ケイシーが報告するその日の個人成績を、それぞれのプレイヤーのページにゆっくりと書き込み、さらに別のノートの生涯成績の欄にも記入するのだそうだ。十二、三人分の成績を記入し終えるのに、いつも二時間ほどかかってしまうので、ケイシーが代わりに記入しようとしても決してノートを渡しはしないのだった。
「やっぱりハルは、計算するコンピュータなんかじゃなかったんだ。いつもあの記憶力には驚かされていたけれど、ちゃんと記録に残してたんだ。ひと安心だよ」
　言ったのが、記憶力のまるでアテにならない＜太っちょラムゼイ＞本人だったから、みんなの総攻撃にあった。なにしろ、ラムゼイと違って、ハルはその一日のすべての個人成績を家まで記憶して帰ったのだし、翌日にはシーズンと生涯のすべての個人記録を何も見ずに披露することができるのだから。それがいかにスゴいことなのか、まるで分かってないラムゼイが総攻撃されるのは当然のことだった。あらためて、僕らはハルの特異で偉大な能力を思い知らされたのだった。
「ねえ、ケイシー。ハルは本当にただの風邪なの？」
　みんなが感嘆の声を上げている中で、僕はケイシーに向かって尋ねた。
「分からない。でも熱があって、なかなか下がらないんだよね。お医者さんも飲み薬しか寄越さないし･･････」
　二日ほど過ぎた早朝、僕はまだベッドの中で眠りこけていたのだが、遠くで鳴る電話のベルの耳障りな音で目が覚めた。ママが小さな悲鳴のような叫び声を上げ、すこし長い沈黙が続いた。やがて、だんだんと意識がはっきりしてきた僕の耳に、ママのすすり泣く声が聞こえてきた。眠気と不安がごちゃ混ぜになった、なんだか不思議な時間が過ぎていく。

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