●イニング３：天国から地獄
　僕らの黄金の日はさらに輝きを増し･･････と誰もが疑いなく、再び打順が一巡することとなった。するとどうだろう。野球の神様がプアマンズ・フィールドから突如姿を消したかのように、今度は僕ら全員がことごとく凡プレイの山を築き上げた。
　最初に超ファインプレイで回りをあっと驚かせたラムゼイは、いつも通りただの＜太っちょラムゼイ＞に戻ってライトへのグラウンダーを後ろに逸らすし、ジミーだって滅多に見たこともない派手な空振りを二回も繰り返した。＜韋駄天ラス＞のトリプルは一塁ベースの踏み忘れをビニーに宣告されてアウト。この僕はと言うと、突如コントロールを乱した＜びっこのサム＞から四球を選んだのはいいのだが、ピックオフで一塁ベースに帰ろうとしてつまづき、惨めなアウトを頂戴した。途中から代わった＜バズーカのマーク＞だって、ストライクが入らないんだから野球にもならない。
　僕らはいまだかつてこんなプレイはしたことがない、今度は何か疫病神が降りてきたんだとさえ思った。草のベンチに腰を下ろし、相変わらずもの静かに見ているジョーが、まるでその疫病神に見えたほどだ。僕らはすごすごと再びジョーの周りに集まった。今度は、甥っ子のマークさえ「どう？ジョー」とはとても聞けない情けない結果だった。それでもジョーは言った。
「うーん。いいね。やっぱりオレもこんなチームでプレイがしてみたかったよ」
　僕らの仲間のうち、数人の眉が曇った。ジミーが言った。
「ジョー、僕らをこんなものだと思ってもらっちゃ困ります。僕らは、少なくとも僕は･･････」
　ジミーが言い終らないうちに、ジョーが話し始めた。それも、さっきよりもっとゆっくりと。
「あれも、あれ。これも、これ。キミらはさっきが自分たちのいい野球、今度のは自分たちのダメな野球と勝手に思い込んでいるようだが、オレにはそんな風には見えなかった。どっちも素敵な野球だったさ」
　それから、ジョーはさらに声を落として静かに話し始めるのだった。
「昔、素晴らしい素質の少年がいた。ピッチャーでな、ちょうどキミらと年頃が同じぐらいだったかな。ある日、どういう訳かそのゲームだけこてんぱんに打ち込まれた。チームのコーチは十点取られてもなおピッチャーを代えず、投げていた少年がマウンドの上で泣き出してしまったんだ。少年はゲーム後に、コーチに尋ねた。どうしてあんなに惨めな思いをさせられねばならなかったのだ、と。すると、コーチは答えた･･････」
　ジョーはどこか遠くを見つめる視線で、僕らのうちの誰か、あるいはみんなに話しているというのではなく、ここにいない誰かに向かって話し掛けているような様子だった。僕はそのピッチャーこそ、亡くなったジョーの息子なのに違いない、と思った。
「･･････キミはゲームで何球投げたね？七十五球さ。そのうちヒットバイピッチが一つ、ウォークが一つ。ボールはたったの二十球だ。そんな素晴らしいピッチャーを私が代えられると思うかい？ってね」
「七十五球のうち、ストライクが五十球！すごいコントロールだ！」
　珍しくハルが叫び声を上げた。僕らの誰もが、そのコーチを正しいと思った。
「それが野球さ」
　ジョーは、今度は僕らを見回しながら言った。僕らは誰からともなくうなずいた。
「そしてまた、それができないのも、野球さ」
　再びジョーは言った。
「ジミー、キミはさっき二度も空振りをして自分で驚いていたじゃないか。こんなはずじゃないって、キミのからだが喋ってた。ここからもようく聞こえたさ。あの時、キミの目はどこについていたんだい？」
「目がどこにですって？」
　ジミーが素っ頓狂な声を上げた。
「目は、僕の目は、ちゃんとあるべきところについて･･････」
「いやいや、そういうことじゃない。いいかい。ピッチャーの投げるボールとは、それがどんなに速いボールでも、どんな変化球でも、それはピッチャーの意志だ。打たれてたまるかという、ピッチャーの意志がプレートめがけて飛んでくる訳だ。オレは昔、マイナーリーグでプレイしていたんだがね･･････」
　再び僕らの目は輝き、ジョーの話がいよいよ核心に近づいていくのが分かった。
「オレは、そこそこ守れるんだが、ちっとも打てない二流の内野手でね、打撃だけが上に上がる場合の鬼門だった。で、ある時、メジャーの経験もある打撃コーチに言われたのさ。お前の目はどこについているってね。オレもジミーと同じ反応をしたよ。ここについてるさって」
　言いながら、ジョーはいかにも可笑しそうに笑った。けれど、僕も仲間たちも、誰一人笑うものはなかった。
「バッターとは、ピッチャーの投げ込む意志を打つもので、ただボールを見ていればいい訳じゃない、ってコーチは言ったんだ。ボールから目を離すな、とはよく聞かされるだろう？でもそのコーチは、ボールがピッチャーの意志である以上、ボールからもピッチャーからも目を離すな、という訳だ。若かったオレは、すぐにコーチの言葉の意味が分かった訳でもなく、それからも決して打撃成績が飛躍した訳でもなかったが、それ以来、オレはピッチャーの目を見ることを心掛けたもんさ。お陰で、二十代半ばに野球をやめるまでの数年間、打率だけは年々上がっていった。もっとも、最初がひどいものだったから、やめた年の打率も二割五分を少々越える程度だったがね」
　ジミーは、ジョーの言葉にうなずきながら、しきりにピッチャーに向かってバットを構える仕草を繰り返している。
「それから。それから･･････」
　ジョーは全員に目配せをしながら言った。
「野手にとって、飛んでくる打球は何だと思う？」
「敵の打った、ゲームを勝利に導くための攻撃の意志？」
　僕はジョーの前言にならって、やや難しい言葉を並べ、それが正解と信じて発言した。
「おやおや、ナズ。なんて頭がいいんだい。それじゃ難し過ぎて、このオレにだって理解できないよ。いいかい。野手にとって、飛んでくるボールは決して敵なんかじゃないのさ。いや、むしろ大事な赤ん坊さ。キミのママが明日新しい赤ん坊を産んだとしたら、どうする？そりゃ、大事な赤ん坊だろう？」
「僕は妹がいいな、可愛いだろうし」
　また、＜太っちょラムゼイ＞がとんちんかんな発言をした。
「ふうん、妹がいいのか。じゃ、ラムゼイ、ママになった気分で、どうやって赤ん坊を抱っこする？」
　ラムゼイが太ったからだを丸めるように、いかにも注意深く赤ん坊を抱く仕草をして見せたお陰で、僕らは大爆笑した。
「そうだ、その通りだ。どんな打球に対しても、野手は正面からぶつかっていくんじゃなくて、そっと柔らかく、あやしてやる気持ちが大切なんだ。ほら、こうして喧嘩腰でボールを捕りにいくだろう？」
　ジョーは立ち上がり、闘牛の牛みたいな動作で、手だけを下げて前進して見せた。
「そんなの変だよ、ジョー」
　誰かが笑い声を上げながら叫んだ。
「そうだろう。変だろう。これじゃボールとは友達になれっこない。じゃ、これはどうだろう？」
　今度はジョーは静かに、しかしまるで山猫みたいにすばしっこく前進し、柔らかく前傾すると、地面すれすれまで左手を伸ばし、そこにグラウンダーが飛んできたようにフワリとつかみ、すぐに右手を添えるのだった。その動きは、一切音のしない無駄のない動きで、僕らの誰もがあっけにとられてしまった。気がつくと、ほんの一瞬の動作なのに、ジョーは二十フィートも前に進んでいた。それは、テレビで見るメジャーリーガーたちのしなやかな動きを連想させるものだったが、僕自身にとってのもっと大きな驚きは、六十歳の人間ができる動きだなんて信じられないということだった。
「ほら、オレももうだめだ。これっぽっちの動きで、もう息が上がっている」
　とんでもない、ジョー！僕は、感激のあまり涙さえ出そうになった。
「ワオー！」
　全員の驚きの声が重なった。ジョーに促されて、僕らは再びプアマンズ・フィールドの各自の守備位置に散っていった。

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