●イニング５：唾吐きケイシー
　 次の年、僕ら＜プアマンズ・フィールド＞の仲間たちは、春のシーズン到来を待ちわび ていた。野球がやりたいのは誰もが一致するところだったけれど、誰が言い出したのか、 十二月から二月まで＜プアマンズ・フィールド＞でのプレイは厳禁というルールを破るも のはいなかった。だいいち、タルマシティ周辺の冬は台地から南に吹き抜ける北風が恐ろ しく冷たくって、ボールを握る気にさえならないのだった。
　それでも僕らは、比較的庭の広いジミー・マーカスの家の前でボール遊びに興じること はあった。バットを振るのは厳禁だった。前の年の冬、＜やぶにらみのビニー＞がふざけ てフルスウィングしたバットに、偶然にもボールが当たり、＜プアマンズ・フィールド＞ でさえ見たことのない大きな飛球が三軒先のウィリアムズさんの庭先に停めてあったクル マのボンネットを直撃してしまったのだ。ご自慢のパール・ピンク塗装のクルマの、それ はちょうど人間で言えば鼻先のような部分で、ウィリアムズさんは本当に血相を変えて怒 りまくった。 もちろん、修理に出してそのヘコミを直してもらう費用を集めなくてはならなかった。 最初、ジミー・マーカスや＜おねしょのロイ＞、＜太っちょラムゼイ＞の三人は、ボール をそこにぶつけたのはあくまで＜やぶにらみのビニー＞なのだから、ビニーが両親にそのことを告 白してお金を出してもらうしかないという意見だった。でも、僕や＜バズーカのマーク＞、 ＜びっこのサム＞、それにハルなどから「それじゃ、あまりにビニーが気の毒だ」という 反対意見が出た。結局僕らはそれぞれのお小遣いを出し合って八十ドルばかりをかき集め、 足りない四十ドルをビニーの父親に出してもらったのだった。お蔭で、クリスマスから新年にかけて、僕ら野球仲間は本当の＜プアメン＞（訳者注：貧乏な人たち）になってしま った。
　三月になった初日、僕らは学校から一目散に自宅に帰り、猛スピードで自転車を飛ばし て＜プアマンズ・フィールド＞に集まった。
＜百科事典のハル＞だけは、どうやら風邪を こじらせてしまったらしく、ここ数日学校を休んでいた。 それでも、＜バズーカのマーク＞や＜首位打者ジミー・マーカス＞、＜韋駄天ラス＞、 ＜バスター・ケン＞、＜ちびのリック＞、もちろん＜太っちょラムゼイ＞、＜おねしょの ロイ＞、＜やぶにらみのビニー＞、＜びっこのサム＞など、お馴染みのメンバーが集まっ てきた。ここ数日のテレビや新聞の報道で、いよいよメジャーリーガーたちもキャンプ地 に集まっているというニュースを知っていた僕らにも、当然のように再び野球の季節が訪 れたという訳だ。
「今日はハルがいないから、公式記録には残さないよ」
　僕の宣告に、みんなは「ちぇっ」と舌打ちをしたけれど、「それじゃ、しょうがない」 という思いは一緒だった。 久しぶりのプレイ・キャッチでは、案の定みんなポロポロとボールをこぼしたり、大暴 投だらけなのに、野球ができるそのことだけで全員の目の色が違うのだった。 しばらく打順を回している内に、バッターボックスから帰って来た＜ちびのリック＞が 僕に向かって囁いた。
「なあ、ナズ。いいかい、振り向くなよ。後ろの小屋の蔭に一人でこっちを見てるヤツが いるんだ」
「誰だい？」
　僕は尋ねながら、すぐに振り向こうとした。黙って見ているぐらいだったら、仲間に誘 ってやればいいという気持ちだったからだ。
「だめだよ。それにあいつ、男の格好をしてるけど、どうも女の子じゃないかと思う」
「へぇ〜」
　こんな場所にこれまで女の子がやって来たことなんてなかったし、それにリックの言う「男の 格好をした女の子」なら、やっぱりこの目で見てみたい。
「あっ」 リックは小さい叫び声を上げてから続けた。
「気がついたのかな。帰ってく」
　僕が振り向くと、ジーンズの上ににヤンキースのジャンパーを着て自転車をこいで走り去る後 ろ姿だけが見えた。帽子をかぶった頭から長い髪が見えた訳でもないので、僕は言った。
「本当に女の子だったの？」
「ああ、間違いないさ」
　リックの話はメンバー全員に知れわたった。お蔭で、次の日からはその子を最初に見つ けたメンバーが、気取られないように目配せをして知らせることになった。 次の日も、また次の日も、女の子と噂されているその子は現れた。＜やぶにらみのビニ ー＞が、その日も突然姿を消してしまったその子について言った。
「あれは女の子だよ。今日はメガネをかけていたから、オレにもちゃんと見えた。ただし どう考えても、決して品の良い女の子じゃなかったけどね」
　僕らは誰だって、男の僕らにとって女の子というものは、それがどんなに品がない子で あったとしても、僕らよりは上品な何物かを備えていると考えていたから、ビニーの言葉 は不思議とさえ思えた。
「だってさあ･･････。あいつ、やせっぽっちの顔なのにほっぺた一杯にガムをほおばって て、時々ペッペと地面に唾を吐き出すんだぜ」
「うそ〜ッ！ 女なのにかい？」
　言ったのはジミー・マーカスだった。
　その子が最初に現れて四、五日たった頃だった。僕らはいつも通りに＜プアマンズ・フ ィールド＞で野球をしていた。もちろん、その日も謎の人物が廃屋の蔭に隠れてこちらを 見ていることには気づいていた。 突然、ギャッ、という叫び声がした。廃屋の方からだった。僕らはプレイを中断して一 目散にそちらに駆け出して行った。遅れてやってきた＜韋駄天ラス＞が、プレイに参加す ることよりも、この謎の人物を捕らえることを優先させ、それにまんまと成功したのだっ た。 ラスに後ろから抱きつかれた格好にされたその謎の人物は小柄で、いつも通りにヤンキ ースのジャンパーに身を包み、これもまたヤンキースの帽子を目深にかぶっているので、 すぐには顔の表情が見えない。
「放せよ！」
　男の子のように低い声で唸ったけれど、僕らにはそれが女の子であることがすぐに分か った。彼女の胴体に巻かれていたラスの腕が解かれた。
「やっぱり、女の子だったんだ！ へぇ〜」
「やっぱり、女の子だっただろ？」
　周りに集まった僕らメンバーが、口を揃えて言った。
「ふん、女だからって野球を見ちゃいけないの？」
　今度の声は、そのまんま僕らが日頃学校で聞いている同世代の女の子の声だった。ちょ っとハルに似た顔立ちのとがったアゴで、色白の顔の真ん中あたりを散らかったコーヒー の粉みたいにソバカスが集中している。ただひとつ、違いがあるとすれば、普通の女の子 は口一杯をガムだらけにしてほっぺたを膨らませて喋ったりなんかしないということだ。 僕は慌てて言った。
「いや、そんなことはないさ。こないだからみんなは思ってたんだ。こっそり覗き見てる ぐらいなら･･････」
　ペッ、と女の子が自分の足元に唾を吐いた。
「こっそり覗き見てるぐらいなら、何さ。一緒にプレイしようってこと？」
　女の子はそう言うと、突然腰を折り曲げて笑い始めた。
「この私が？ アハハハハハハハ。一緒にだって？ ギャハハハハハハ」
　僕らはみんなあっけにとられた。笑い転げながら時々、女の子は二度三度と地面に唾を 吐いた。
「アタシはケイシーだよ。六年生。ニュージャージーから来た。親戚の家に遊びに来た」
　真顔だけれどぶっきらぼうにそう言い終ると、また地面に唾を吐いた。
「ニュージャージーって、ずいぶん遠くから来てるんだね」
　僕は言った。
「ねえねえ、ニュージャージーってどこさ？」
　捕まえた相手が女の子で、ちょっとバツが悪そうだったラスが、学校での地理の成績の 悪さそのまんまの間抜けた質問をした。
「へえ〜、ケイシーって、女の子にしちゃ珍しい名前だね。名字？」
　僕のこの質問は、僕ら野球少年にとっては何よりも重大な事柄だった。 なにしろ僕らが知っている＜ケイシー＞と言ったら、誰もが知っている歌『私を野球に 連れてって』の歌詞の中に登場する隠れたヒロイン＜ケイティ・ケイシー＞の名字だし、 小さい頃に何度読んだか分からない絵本『打席のケイシー』の主人公の名前そのまんまじ ゃないか。あの、＜マイティ・ケイシー＞が地元の観客の期待を一身に浴びながら、もの の見事に期待を裏切ってしまうあの物語。アメリカ中の誰もが、三球三振したヒッターを ＜ケイシー＞と野次るようになったあの物語。二球連続の見逃しストライクの後に続くの は、絶対にものすごいホームランのはずだと期待しながら次のページをめくる時の、あの ゾクゾクするような興奮を教えてくれた野球に捧げられた詩。だから＜ケイシー＞は僕ら 野球少年にとって特別の意味を持っている名前なのだ。
「名字はカーター。Ｃだよ。名前のＫと合わせてケイシーってのが私の呼び名なんだ」
「じゃ、本当はキャサリンとか、ケイティなんじゃないの？」
＜太っちょラムゼイ＞が冷やかすような調子で言った。その瞬間、＜唾吐きケイシー＞の 血相が変わった。ラムゼイに向かって突進し、やせっぽっちの両腕で胸を突いた。ラムゼ イはその場にしりもちをついて倒れたけれど、まさか女の子にそんなことをされるとは思ってもい なかったので、ポカンと口を開けたまましばらくは身動きできなくなっていた。僕ら全員 も、ただあっけにとられて呆然と立ちすくんでしまった。
「ケイシーだよ。ケイシー」
　すでに誰の頭にも＜唾吐きケイシー＞というあだ名が浮かんでしまったその女の子は、 そう言いながら再びペッと足元に唾を吐いた。

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