●イニング４：１〇〇マイルよりも速く
　僕らの黄金の日･･････。野球の神様が現われ、突然姿を消し、そしてボールを追い掛け続けた日。元マイナーリーガーのジョー・メラヴィという見かけは若々しいけれど一人の老人に見守られながら、野球というゲーム以外いったい人生に他に何の楽しみがあるのだろうかと思えた日。しかし黄金の日は、同時に夏の終わりを告げるようにプアマアンズ・フィールドの黄金に揺れる草原を、あっという間に赤く染めていくのだった。
　黄昏が迫るフィールドを、チームメイトが二人、三人と連れだって帰っていく。それぞれの胸に、湧き上がるような喜びと満足感を抱きながら。ジョーは翌日の午前中にはマーク・ソーンダイクの家を出発し、キャンピングカーで南に向かうのだと言う。
「さようなら、ジョー。ありがとう」
「ジョー、お会いできて光栄です」
「いやいや、こっちこそな」
　一人一人が一日中輝かせていた瞳のまんまで、ジョーに別れの挨拶を済ませていった。あの＜太っちょラムゼイ＞も＜やぶにらみのビニー＞も、それから＜百科事典のハル＞さえも、自転車を漕ぐ後ろ姿に昨日まで見られなかった自信をみなぎらせて帰っていくのだった。
　気がつくと、ジョーの運転するクルマで帰るはずの＜バズーカのマーク＞、そして＜首位打者ジミー・マーカス＞の二人のスラッガーと、チーム内でもあまりぱっとしない僕の三人だけがその場に残った。もうすでに、ようやく目の前の相手の顔が見分けられるかどうかというほどに暗闇が近づく時間だったが、僕にはまだ帰れない理由があった。ジミーがその場に居残った理由は、僕にも察しがついた。将来必ず野球選手になるんだと公言していたジミーにとって、ジョーと過ごす時間の長さこそが、野球選手になるための不可欠の儀式と思っているのに違いなかった。僕は自分がその場に残った最後の理由を解決しなくてはならなかった。ジョーとマークがクルマの停めてある廃屋に向かって歩き始めると、僕もジミーもその背後についていった。
「ジョー」
　僕は、ジョーの背後から声をかけた。
「あなたには昔、野球をやっていた息子さんがいたと聞いています」
　マークとジミーが、誰もがまるでタブーのようにして聞けなかった質問を口にした僕への驚きの視線を送る。ジョーは無言だった。
「ハイスクールの時に１００マイルの速球を投げるピッチャーで、すごく注目されていたんだって･･････」
　僕が再びつづけると、クルマの近くまで歩いたジョーは、一度ドアに手をかけ、それから僕ら三人の方を振り返った。少しの間、沈黙の時間が流れた。
「昔･･････」
　ジョーが静かに話しだした。
「オレが野球をやっていた頃、そして最後に野球をあきらめた頃、こんなことを考えていた。野球選手にはメジャーリーガーになれるヤツと、そうでないヤツがいる。それほど大差ない、ほんの少しの才能があれば、野球の技術は経験でいくらでも身につくもんさ。問題なのは、野球選手としての性根なんだ。オレにもコップの底にへばりついているレモネードの最後の絞りカスみたいな才能はあった。しかし、人間の性根は変わらない」
　クルマに背中をもたれながら、ジョーは話しを続けた。
「それでも、野球はオレの人生だった。ハイスクールを出て六年間、オレは野球に熱中した。五年目に結婚をして、六年目に息子が生まれた。食えないマイナーリーガーをやめたのは、もちろん家族のためだった」
　ジョーはポケットからタバコを探りだし、少しかがみ込むようにしてマッチで火をつけると、深い溜め息とともに煙がはき出された。煙は、彼の六十年の人生の長さを思わせるように、ゆらりゆらりと中空を漂っていた。
「やがて、成長した息子が野球をやりだした。すると、どうだろう。オレの人生は、オレのものではなくなってしまった。息子の野球人生が、そのまんまオレの人生そのものになってしまった。実際、息子は素晴らしい才能を持ったピッチャーだった。マイナーで昔見た、どのピッチャーよりも速かったかも知れない。最後の年にはメジャーのスカウトも何人かやって来た。しかし、その頃になると、オレと息子との関係がうまく行かなくなっていた。それは、オレは元マイナーの選手に過ぎない男で、いくら才能に恵まれたピッチャーが目の前にいて、それがオレの息子だと言っても、あくまで別の人間なのに、オレはまるで息子に代わって息子の人生を生きているような気になっていたのさ」
　しばらく、沈黙の時間が流れた。
「息子は･･････。息子はそんな鬱憤を引きずりながら、交通事故を起こして死んでしまった。結局、息子にとって必要なのは、期待をかけて激励するコーチなんかじゃなく、本当は息子の夢がかなうことを祈ってやるただの父親だったのだ」
　それが、ジョー・メラヴィの死んだ息子、一〇〇マイルよりも速い速球を投げるピッチャーの物語のすべてだった。大きく、深い暗闇が、とうとう黄金の日の終了を告げていた。
　ジョーとマークの乗ったクルマが砂煙を上げて走り去った坂道を、僕とジミーは黙って自転車をこぎながら登っていった。途中、一度だけジミーが自転車を止めて囁いた。
「一〇〇マイルよりも速いボールを投げた、あのジョーの息子の名前を聞くのを忘れちゃったね」
　僕は「ああ」とだけ答え、二人はそのまま家路についた。

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