８．

　三日目の水曜日の朝を迎えるまで、ダツはまるで上の空の時間を過ごしていた。 飛竜はますます弱って、半分魚の干物のように醜い姿になっていたが、どうにか生き延 びていた。 前夜、飛竜はダツに言った。
「オレは、キミの無であり、キミの壮大な嘘だ」
　そう呟きながらぐったりとしてしまった飛竜を見て、一瞬、ダツはそれが飛竜の臨終の 言葉なのかと思って慌てた。
「安心しろ。オレはあのエメラルドのおしっこの中で死ぬ。それがキミの望みだろう」
「ああ、そうだ。あと一日、サヨリさんのエメラルドのおしっこが出るまで、せめてそれ までは生き延びてくれ」
　ダツは心底、飛竜に懇願した。
「オレを延命させようとするキミの自分勝手な都合こそ、実はオレ自身の存在理由なのだ がな」
「それじゃお前の存在とは、ぼくの醜悪さのすべてということになるんだね」
　ダツは意地悪くも、死にかけの小蛇に悪口を浴びせた。
「キミはまだ気がついていないようだが、オレはキミの行動できない思考そのものなんだ ぜ。あるいは、遅れてやってくるキミの思考そのものなのさ」
　最初、飛竜はその存在がダツのカサブタだと言った。そしてアコガレとも、記憶とも、 愛憎であり、新しいものへの恐怖とも言った。さらには懐古趣味であり、素姓であり、リ ンパ腺であり、エゴだとも言った。飛竜はダツのペニスであり、ダツの恋であると言い、 その直後から急速に萎え始めたのだった。今また飛竜は、まるでそれが臨終の言葉ででも あるかのように、ダツの無であり、嘘だと言う。さらにまた、ダツの身勝手な都合として の存在、行動できない思考などという面倒な理屈にしか聞こえないことを言う。
　それらは、ダツ自身が無意識の内に持ち続けている闇の照射とでもいう意味を持ってい るのだろうか。それらは、ダツに欠落している人間的個性の再現を意図した指図なのだろうか。いいや、こんなちっぽけな蛇一匹に、意味のある言葉を吐ける能力などあろうはず はない。飛竜の存在とは、飛竜自身が寄り添って棲息してきたダツの性器と同じほどにし か、ダツの人生に多くの意味など語らないのだ。
　ダツはパンツを下ろし、自分のペニスを見た。蛇がペニスに象徴されるような何物も、 ダツには感じられなかった。むしろダツのペニスはダツの乳房のようであり、ダツのシャ ボンのようだ。 しかし、とダツは思う。あるいは飛竜は、ダツのサヨリへの恋を代弁してくれているの かも知れない。恋は、記憶であり、素姓であり、アコガレであり、ペニスだ。そしてまた、 恋は無であり、嘘なのに違いない。リンパ腺や懐古趣味やエゴやアリバイは、ひょっとす ると恋のためにのみ存在するのかも知れない。

　翌朝、ダツがナガラミ荘の玄関ドアを開け、市役所に向かおうとすると、同時に隣のド アが開いた。駅の売店の女と自分だけが言い張る中年の女、イニシャルＫの女が、ダツの 姿を見つけるとすぐに駆け寄ってきた。 ダツもまた、なんだかすごく懐かしい隣人に会えた気がした。
「アタシ、カマスと言うのよ。ねえ、あなた、市民生活課の調査係さん」
　この隣人の中年女性に初めて、イニシャルＫの正当なアリバイとなる「カマス」という 名前が冠せられた瞬間だった。
「調査してちょうだい。アタシを調査してちょうだい」
　売店の女が、ダツの腕にしがみついてきた。
「ええ、カマスさん、調査しますとも。あなたに関する調査は調査係としてのぼくの使命 にもかかわることですから。とくに、ぼくはあなたがおっしゃったコード１０５の廃棄物 については、並々ならない関心を持っているのですから」
「コード１０５ですって？　アタシが調べてほしいのは、カマスチヌという一人の人間の、 一人の女としてのアリバイについてだわ。アタシのアリバイはどこへ行ってしまったのか しら。アタシの売店がどこにもなくなってしまったことを、あなたはご存じないんだわ」
　ダツの腕を握る売店の女の力が、さらに強くなり、懇願は哀願へと変わっていく。
「カマスさん、これでもぼくは、あの日以来、何度もＰ駅に足を運び、あなたの言うアリ バイの手掛かりを確認しようと努力しているのです。どうぞ、信用してください。ぼくは Ｐ市役所市民生活課調査係であると同時に、どうやらぼくは恋というあまりにも人間的な 行為の中に自分自身のアリバイを見つけそうになっているのですから」
「恋？　恋ですって？　きっとあの夜、あなたが混乱させられたと言っていた全裸の女性のこ となのね。それにしても、どうしてその混乱を安易に恋などという不定型のものに置き換 えることができるの？　恋なんて、あなた自身にとって何のアリバイにもならないのだわ」
「いえ、カマスさん、ぼくは、ぼくの恋は、決して不定型なものでも、曖昧なものでもな いのです。ぼくの恋にははっきりとしたカタチがある。ぼくは、そのカタチをこの目で確 認し、この手に取ることで、まったく完全なものにできるのです。ぼくは今日、その恋の 実体とあるものの死とを重ね合わせて、ぼくのまったきアリバイとなるものを手に入れに 出掛けるところなのです」
「恋の実体と死ですって？」
　かつての売店の女、カマスチヌは、縮れた髪の真ん中の小さな顔に驚きをいっぱいにた めて、目の前の生気に溢れた調査係の瞳を覗き込んだ。
「いいですね。必ずあなたの調査はしますから、どうぞ待っていてください。それから、 もしよろしかったら、ぼくの恋に確かな実体が生まれることを願ってください」
　そう言い残すと、ダツはカマスチヌに背を向け、ナガラミ荘の階段を駆け降りた。 背後で、女の振り絞るような「チョウサガカリサーン」の声が響いていた。
　午後になるのを待ちかねて、ダツはホタテ貝のスロープを漕ぎ出した。世界記録への挑 戦も、そのためのスネイク・ダンスも、いつも通りにやってみたが、折悪しく振り続ける オレンジ色のシャーベットのような雪が邪魔をして、小さな橋を渡ったところで断念しな くてはならなかった。

　Ｚ町の三軒目のインターフォンを鳴らす頃になると、オレンジ色の雪はいつの間にか薄 いブルーのシャーベットになっていて、すぐにサヨリが現れた。青い玄関ドアから入り、 人のいない居間に通された。
「飛竜は生きていますか？」
「ええ、辛うじて」
「生きたまま、棺の中に閉じ込めてしまうのですか？」
「どうか安心してください、サヨリさん。それが、飛竜自身の希望でもあるのですから。 ま、もっとも、ぼくの希望でもあるのですが」
　今は銀行員となってしまったサヨリは、かつてそうしたように、別室からエメラルドの おしっこのための容器を持って来ると、青いソファーの横に静かに置いた。
「ワタシを愛してくれるのでしょうか？」
　サヨリが尋ねた。
「あなたのエメラルド症候群と一緒に愛しています」
　ダツは答えた。
「エメラルド症候群が直ってしまったワタシも、愛してくれるのでしょうか？」
「エメラルド症候群をかつて病んでいたという確かな記憶と共に、あなたを愛することが できるでしょう」 　サヨリは青く長いスカートの腰のジッパーを下ろすと、以前と同じようにそれを脱ぎ捨 て、美しい裸の下半身を見せた。細く長い足の付け根に濃いブルーの蔭が煙り、エメラル ドのおしっこはその奥からきっと出て来るのだった。 ダツはズボンの右ポケットからすっかり膚触りの変わってしまった飛竜をつまみ出すと、薄くミルクがかった青いほうろう容器の中央にそっと置いた。
　サヨリのおしっこがエ メラルドの塊に凝固する瞬間が見えるよう、ダツは容器をテーブルの上に載せ、サヨリに もそこでおしっこをしてくれるように頼んだ。 飛竜が微かに頭を持ち上げ、二人に告げた。
「オレは、キミたちの失なうものだ。オレは、キミたちの生き続けていく宿命だ」
　サヨリがテーブルに乗り、中腰になって容器を跨ぐと、ダツはソファーの位置を変えて 凝視する体勢をとった。
　無色に近い透明な液体がサヨリの股間から流れ始めると、最初それは飛竜の膚の細かい 突起に当たり、小さな飛沫を霧のように飛び散らせた。見ると、黄金色やエメラルド色、 青やピンク色の微小な光の玉が、ほんの小さな空間で虹を作っているようだ。飛竜は明ら かに膚に生気を甦らせ、その虹色の液体は飛竜の体内にまで浸透していくようだった。 再び、ヒスイ色に青みがかった地膚全体と太く黒い横縞の模様が、初めて見つけたあの 夜のような発光体の美しさを見せるのだった。 虹色の液体は、ゆっくりと青い容器の中の飛竜を沈めていく。 上昇する水面に波紋が立つたびに、飛竜の美しい紋様は姿を変え、そのたびにありとあ らゆる色彩を帯びた光の玉が揺れる。
　すでに虹は消え、落下するサヨリのおしっこは音さえも立てようとしない。少しずつ質 量の違うねっとりとしたリキッドに浸されながら、飛竜はだんだんと沈んでいく。
　その瞬間、飛竜は強く発光し、ぐるりと反転すると、端正なとぐろを巻き直して絶命し た。 最後のスネイク・ダンスだった。
　四角い容器がちょうど一杯になったところで、サヨリのおしっこは終わり、サヨリが容 器から身を離そうとすると、すでにエメラルド症候群の再発による塊が生まれていた。 エメラルド症候群は、はっきりとエメラルドの結晶を残し、実在していた。 今では飛竜は、元気に生きていた当時よりもさらに美しく輝く膚と紋様を浮かび上がら せているが、エメラルドの結晶によって、その口は塞がれてしまったのだった。
　ダツは不意に、昨夜飛竜から言われた「行動できない思考、あるいは遅れてやってくる 自分の思考」という言葉を思い出した。 エメラルドの塊を真正面から眺めているサヨリの腰に腕を伸ばし、ダツは静かにサヨリ の躯を抱き寄せた。
「エメラルド症候群が直ったワタシも愛してくれるのですね」
「エメラルド症候群のはっきりとした証拠として残る飛竜の記憶に賭けて、ぼくはきっと あなたを愛していくことができるでしょう」
　二人は裸になって横たわり、すでにエメラルド症候群の痕跡の一部になってしまった飛 竜の脇で抱き合った。 青い部屋の中で二つの青い人影が一つに重なっていった。


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜了＞