５．

　ダツは放心した。喫茶店「マーメイド」でその日の午前中を過ごし、午後は市民生活課 調査係という職業とはまったく関係のない、自転車による彷徨の時間を過ごした。それはま るで、学生時代に歩くことだけが目的だった生活をダツに思い起こさせた。
　翌日も、ダツはいったん市役所に出た後、すぐにナガラミ荘に取って返し、隣人の売店 の女の、イニシャルＫのドアを開けた。女はその日も不在で、それからダツは再びＰ駅に出向き、そこでもまた誰とも会うことができなかった。 その翌日も同じようにＫを訪ね、そこで売店の女に会うことはできなかったが、その後 に向かったＰ駅は、それまで二日間とほぼ同じ時刻だったのに、人混みでごった返してい た。ダツは、駅事務所の窓口に明らかに駅員の姿を認めたが、あまりの混雑ぶりに言葉を 掛けることさえできなかった。 十時四十分の上り電車が発車してしまうと、駅舎は再び閑散と静まり返り、それと同時 に駅員の姿さえも見失ってしまった。駅舎のエントランスを出たダツが腕時計を見ると、 その数日間とまったく同じ十時四十二分を指している。
　次の日、ダツは成果の上がらないコード１０５の廃棄物調査を諦め、久しぶりにＺ町の サヨリの家に向かった。ズボンの右のポケットに飛竜、左のポケットにサヨリの青いブラ ジャーが押し込められていた。ブラジャーを持ち主に返す、というのがダツの再訪問の立 派な口実となるはずだし、それにまだ「エメラルド症候群」の実態を確認したいという希 望がダツにはあった。 サワラ家の前までやって来ると、ダツは以前にしたのと同じようにインターフォンのボ タンを押した。しばらく待ったが、応答はなかった。まだ朝の九時半だし、ひょっとする とサヨリは寝ているのかも知れない。ダツは青い玄関の脇の小窓に目をやり、そこに人の 気配がないか確かめようとしてみたが、無駄だった。 ぶらぶらと自転車を漕ぎ、Ｚ町の周囲を三十分ほど回ってみた。もう一度サワラ家に戻 り、インターフォンを鳴らした。応答はなかった。
　十時半、十一時、十一時半、十二時と、 正確に三十分おきにサワラ家の前に戻り、インターフォンを押してみたが、中からの返事 はなかった。 午後は一時間おきにサワラ家のインターフォンを押し続けたが、結局サヨリの応答はな かった。サヨリのエメラルド症候群が悪化し、何か恐ろしい変化がサヨリの身に起こって いるのかも知れない、と思った。エメラルドのおしっこが体内で凝固し、緊急的に入院し たのかも知れなかった。あるいはまた、あの美しくエメラルドに凝固する現象が、サヨリ 自身にも起こってしまい、サヨリの肉体そのものがエメラルドの塊になってしまったのか も知れない。
　次の日も、そのまた次の日も、ダツはＰ市役所に出勤すると同時にＺ町に出掛け、サワ ラ家のインターフォンを鳴らし続けた。しかし、サヨリも家の人も留守らしく、応答はな かった。 リポートNO49が、なんだかすごく不吉なものに思えてきた。４は死を、９は苦をイメー ジさせるのは昔からの常識だ。それにも増して、ダツにとって区切りのリポートになるは ずのNO50までもう少しなのに、サヨリの不在はまるでそれを邪魔する出来事のようにさえ 考えられた。まして、リポートNO49をまとめ終えれば、すぐにでもNO50のリポート作成の ための本格的な準備に入ることができるのだ。エメラルド症候群の入念なリポート作成を 完了しなければ、目の前にぶら下がっているあのコード１０５の廃棄物に関する調査態勢 にすら入れないではないか。 ダツは無性に腹が立った。そして、さっさとリポートNO49を完成させ、特に備考欄に書 き入れようと思っているサヨリのおしっこが凝固する瞬間を見届けるために、今度面会で きたらただちにその旨を申し出ようと心に決めた。
　週末を挟んだ十一月第二週の月曜日、ダツは自転車を漕いでサワラ家の前にやって来た。
　異変が起きていた。サワラ家の庭からかなりの量のエメラルドのブロックが道路脇まで 運び出され、見ると、Ｐ市ゴミ回収シールが貼られている。不燃ゴミ、粗大ゴミの両方の 届け出がされている証明がその回収シールを見れば明らかだった。ダツは慌ててインター フォンのボタンに飛びつき、いつもは一回だけ押すところを、二度、三度と続けざまに押 した。
「はい」、という懐かしいサヨリの声が応答した。
「Ｐ市役所市民生活課調査係のダツです」
　今、起ころうとしている異変に心臓が爆発しそうなのを抑えながら、ダツは努めて冷静 を装った。
「あっ、ダツさん」
　すぐに玄関の青いドアが開き、中からサヨリが現れた。
「いったい、どうしたと言うんですか。このブロック」
「ワタシ、直ったんです。もうすっかり」
「えっ」とダツは聞き返し、サヨリの言っている意味と自分の混乱する頭を整理しようと した。
「ワタシ、エメラルド症候群が直ったんです」
　あの美しいエメラルド症候群が失われた、ダツの最初の気持ちはそんなものだった。そ れでは、ダツはもうサヨリのおしっこが凝固するその瞬間を見ることはできないのだろう か。
「それでは、もう、エメラルドのブロックはできないのですか？」
「そうです。国立腎臓専門センターで、ワタシのための新薬が開発されたのです。三日ば かり、ワタシ入院して治療を受けていたのです」
「だって、あなたはエメラルド症候群を決して嫌いではないとおっしゃっていたではあり ませんか」
「ええ、でも直ったのです。喜んではくれないのですか？」
　ダツの心の中に、なぜかサヨリに対する軽蔑のような気持ちがわいた。
「直ったら、捨ててしまうのですか、これまでのブロックを」
「ええ、だって、今までの嫌な思い出にしか過ぎませんもの」
「嫌な思いでなのですか？」
「今となっては、嫌な思い出ですわ」
　ダツは、自分の片頬が引きつるのを感じた。
「どうしたのですか、ダツさん。あなたのようにワタシのエメラルド症候群を親身になっ て心配してくれた方はいませんでしたのに」
「いえ、僕はあくまで市民生活課の調査係としてお話を伺っただけですから。あなたがエ メラルド症候群だと言うから、調査に来たのです。それなのに、もう直ったと。もう、こ れまでのブロックは捨ててしまうのだと････」
　情けないほど、ダツは自分の心にあるままを言葉としてタレ流した。なんだかリポート NO49まで書き上げてきたＰ市役所市民生活課調査係としての仕事のすべてが無駄に終わった気が した。少なくとも、リポートNO49は、ダツの調査に完全をもたらさないうちに事実そのも のが消えてしまうのだった。
「お茶を飲んでいってください」というサヨリの申し出を断ると、ダツは自転車を漕ぎ出 し、サワラ家から一刻も早く離れたいという気持ちになった。しかしすぐに気が変わり、 まだ玄関前にいるサヨリに告げた。 「このエメラルドのブロック、もしよろしければ、僕に一ついただけませんか」
　サヨリは少し気落ちした表情を見せながら、「構いませんわ」と、青白い笑顔を浮かべ て言った。 ダツはエメラルド症候群のブロックを小脇に抱えながら、片手で自転車を漕ぎ出して いく。ヨロヨロと進む自転車は、ダツの失意そのままだった。
　市役所に戻る途中、何度も 転げそうになった。ホタテ貝までの坂を片手ハンドルで昇っていくことには慣れてきたは ずなのに、ブロックとリポート用紙の束を抱えて昇るのは容易ではなかった。 「セイカツチョーサ、サイカツチョーサ」と掛け声を心の中で叫びながら、文房具屋兼タ バコ屋兼日用雑貨品屋の手前あたりから自転車に加速をつけだし、一気に昇った。
　市民生活課の、いつもダツが朝のほんのひととき腰掛けるだけの席に戻ると、四人の顔 のない職員たちが小脇に抱えたエメラルドのブロックを注視しているのが分かった。
「これ、エメラルド症候群によるブロックです」
　ダツからいちばん近い場所にいた同僚が、椅子を蹴立てて飛び退いた。それから四人全 員が立ち上がり、やりかけの書類を持って市民生活課のコーナーを離れて行ってしまった。 しばらく経つと、ダツ以外は無人となった市民生活課コーナーの電話が鳴り、ダツが受 けた。助役からの内線電話だった。
「エメラルドのブロックを持って、すぐに来い」と言われた。 二階の助役室のドアをノックすると、伯父がそわそわと待っていた。
「いったい、なぜそんな物を市役所に持ち込んだんだ」
　いきなりダツはどやしつけられた。
「あの、これはエメラルド症候群によるブロックでして････」
「そんな説明は、いらん。小便だろう、女の小便の塊だろう」
　伯父の語気はますます荒くなる。
「そうです。僕のリポートNO49の調査対象物なのですが」
「小便だ。それ以上の何の調査が必要だと言うんだ。分かりきったことじゃないか。それをお前は、何を調べると言うんだ」
「お言葉ですが、だって、これ、おしっこなんですよ。おしっこなのに、こんなに美しく 固まっている。変じゃありませんか」
「小便は、どうなろうと小便だ。そんな物を持ち込んだら、職員の迷惑になることが分か らないのか。捨てて来い。今すぐに捨てて来い」
　それ以上は、何を話しても無駄だった。ダツは、エメラルドのブロックを手にしたまま、 市役所の裏口から外に出た。ホタテ貝のちょうど裏にある小さな木立の中のベンチに腰を 下ろした。
　どう処分しろと言うのだろう。これは燃えるゴミか、燃えないゴミなのか、確かサヨリ は不燃ゴミとして申請していた。ダツはエメラルドのブロックを、回収ゴミの中から拾い上げ、そして所有してしまった自分に気がついた。 気泡のまるでない、澄んだエメラルドグリーンのそのブロックを撫でてみる。ひんやり と、そしてつるりとした触感が心地良い。
　腰掛ける時、ズボンの両ポケットの膨らみが気になった。右側には飛竜が、左側にはサヨリの青いブラジャーが入っているはずだった。 そうだ、ブラジャーをサヨリに返すのを忘れていた。 飛竜が這い出して、エメラルドのブロックの感触を確かめるように、ゆっくりねっとり と腹這っている。時には、金色の繊毛を寄せ集めてできたような細い舌で、飛竜はエメラ ルドのブロックを舐めてみるが、何の味もしない。ダツも同じことをして、すでに確認済 みなのだ。
　きっとリポートNO49は、未完成のまま終わってしまうのだろうし、そうなると、ダツが 書きかけたリポートNO49は消去されねばならず、あのコード１０５の廃棄物調査が新たな リポートNO49の対象になるのかも知れない。そうか、これまで数日間の市民生活課調査係 としてのダツの仕事は、今、徒労に終わろうとしているのだ。ダツは呆然とした。 飛竜がエメラルドのブロックの上でとぐろを巻きながら、ダツに言った。
「気づいていないようだから言うが、オレはキミの愛憎だ。キミのサヨリへの軽蔑の気持 ちは、喪失への畏れでしかないんだぜ。愛憎とは、しょせんそんなものさ」
　しかしダツは思った。失うことへの恐怖なんかない。なぜなら、いつだってホタテ貝 からのスロープで、オレは世界記録に挑戦し続けている。過去の記録を失いたくないのな ら、オレは二度とスロープを駆け降りたりはしない。それにだいいち、調査係としてのリ ポートとは、結局いつも新しい発見に関して冷静に記すことではないか。 たかが小蛇の言う気まぐれな言葉なんぞに、惑わされはしない。
　ダツはその日、エメラルドのブロックを自宅に持ち帰った。