３．

　ダツはサワラ家の玄関に入り、ドアを閉めた。サヨリは慌ててサンダルを脱ぎ、移動す るのももどかしげに青いスカートの腰のファスナーに手をかけながら、玄関脇の風呂場の 脱衣室らしき部屋に入って行く。
　白いはずの壁面や天井には、小さな窓から差し込む自然光が屋外の青を溶かし、家の内 部もまた薄いブルーに染まっている。
「どうですか、サヨリさん」
　少し経って、ダツは声をかけてみた。
「ええ、捕まえたのですが、すぐにまた服の中に入り込んでしまって････」
　声はガラス戸の向こうからくぐもって聞こえてくる。
「あの、ダツさん、助けてください」
　ダツは玄関で靴を脱ぎ、呼ばれる方向に上がって行く。曇ガラスの向こうにサヨリのほ っそりした白い蔭が見えた。
「開けますよ」
　ドアのノブに手をかけ、そっと開けると、素っ裸になったサヨリが身を屈めて脱いだ衣 類の中を探っている。見ると、飛竜は青いセーターの端から頭を出しているのだが、サヨ リが捕まえようと手を伸ばす瞬間にセーターの中に隠れ、セーターをつまみ上げるとスカ ートの中に隠れ、また青い下着の中に紛れ込んでしまう。
「サヨリさん、これはもうどうしようもありません。どうやら飛竜は、新しい棲み家とし てサヨリさんの服を選んでしまったようです。コイツは頑固者で、これでもうしばらくの 間、サヨリさんを離れませんよ」
「ダツさんは、それでいいんですか。飛竜が私のものになってしまっても」
「それは困ります」
　ダツはそっと手を伸ばし、サヨリの青いパンティーの中に隠れている飛竜をパンティー ごと掴むと、それを自分のズボンの右ポケットに入れてみた。すぐに飛竜はダツのポケッ トから這い出し、床に落ちているサヨリの別の衣類に潜り込んでしまう。
「しかたありませんね。ひょっとすると飛竜は、僕への寄生をやめてしまったのかも知れ ません。今はサヨリさんの体温にか、体臭にか同調してしまって、僕とのこれまでの共生 関係は崩れてしまったようです」
　ダツの目に涙があふれ、ポタポタと連続して脱衣室の床にこぼれ落ちた。
「やめてください、ダツさん。あなた、市役所の調査係のお仕事をなさるのか、泣くのか、 どちらか一つにしてください」
　素っ裸のサヨリがきつい口調でダツを非難した。
「あ、すみません。そうです、エメラルド症候群、エメラルド症候群についてお伺いした かったのです」
　サヨリが、飛竜を捕まえようとする手を休めずに言った。
「おしっこです」
「えっ」と、ダツは聞き返した。
「ですから、私のおしっこです」
「おしっこって、あの小水のことですか？」
「そうです」
　ダツは思わずサヨリの下腹に視線を落とし、さっき飛竜がきっとそこに到達したかった のに違いない、濃いブルーに煙る陰部を凝視した。
「どういうことでしょう」
　再びダツは質問した。
「私のおしっこは、空気に触れた瞬間に固まってしまうのです。エメラルド症候群という のは、国立腎臓専門センターのお医者様が下した診断です」
「つまり、サヨリさんのおしっこの塊が、お宅の庭に積み上げられたエメラルド色の透明 なブロックなのですね」
「そうです」
「直るのですか」
「さあ、分かりません」
　サヨリは飛竜に棲み家として奪われた青いブラジャーを諦め、それ以外の衣服を再び身 につけると、ダツを居間に案内した。それからダツは、サヨリの説明に耳を傾けた。
　エメラルド症候群がサヨリの身に起こったのは、小学校高学年で生理が始まると同時だ った。それ以来ほぼ十年間、サヨリのおしっこはエメラルドのブロックとして積み上げら れたのだと言う。何度も何度も、サワラ家のトイレは固形化したサヨリのおしっこによっ て壊れ、同じことが学校のトイレでも起きた。やがてサヨリは学校にも外の世界にも出掛 けることができなくなり、ほとんどすべての時間を家とその周囲だけで暮らし続けること になった。
　途中、席を立ったサヨリが別室から奇妙な容器のような物を手に戻ってきた。把手の付 いた四角い容器は、サヨリの説明を待つまでもなく、それがエメラルドのブロックを採取 するための道具だということが分かった。
「庭の片隅に、なんだか楕円球のようなカタチのものがありましたね」
「ええ、あれは失敗。初めの頃には、積み上げることなんて、まるで考えてもいなかった のです」
　居間のダツとサヨリの真ん中にあるテーブルの上に、サヨリの青いブラジャーとその中 に棲息しているはずの飛竜が丸まっていた。時々、ダツかサヨリのどちらかが交互に、そ のブラジャーを撫で、飛竜の存在を確かめ合った。
　やがてサヨリが紅茶を入れ、ダツに勧めた。
「飲み物の制限とか、あるいは食餌療法といったものはなさっているのですか？」
「いいえ、まったく。それに私、このエメラルド症候群を必ずしも嫌ったりしていません から」
「そうですね、飲めばそれがエメラルドのブロックになってしまうことを悩んだら、こん な美味しい紅茶さえも飲めなくなってしまいますからね」
　言いながら、ダツの頭の中には、サヨリのおしっこが固形化するその瞬間を見たいとい う欲求が生まれていた。サヨリはすっかり打ち解けたようで、何の隠し事もなく喋ってく れるし、さっきはサヨリの全裸さえも見てしまったのだから、ひょっとするとダツが申し 出さえすればかなうことなのかも知れない。
「今日はいくつできたのですか？」
「二つ」と言って、サヨリは立ち上がり、さっき容器を持ってきた部屋の方からエメラルドのブロックを一つ抱えてきた。それは、確かにエメラルド色で、青く統一されたＺ町の 外装と木々の緑の中に同化してしまったために、最初にダツが見た透明なブルーとはひど く違った黄緑色のゼリーのようにぬめっと輝いている。
ダツはそれを撫で、次いで指の背で叩いてみた。コツコツと、密度の高い、乾いた音が した。
「きれいな結晶ですね」
　飛竜が青いブラジャーの端から顔を出している。
「ありがとう」
　もしかすると、サヨリはこうして生み出すエメラルドのブロックに愛着さえ抱いている ようだ。
「どうしてこれを市の方に廃棄処分しないのですか。不燃ゴミなのか一般ゴミなのか分か りませんが、きちんと申し込めば大丈夫だと思うのですが」
「そんな気になれないのです。私のからだから出てきた物が、例えばそれが水と一緒にど こかに流れて行ってしまうのならともかく、こんなにきれいな物を捨ててしまうことなんてできません」
　濃く青く澄んだサヨリの瞳が、少しばかり遠くを眺める視線になった。
　ダツは、サヨリを美しいと思い、サヨリのエメラルド症候群もまた美しい病理だと思った。

　結局、ダツはサヨリのその日三つ目のエメラルドのブロックが誕生する瞬間を見たいと いう申し出ができないまま、サワラ家を後にすることになった。
　飛竜が棲みついたサヨリの青いブラジャーは、そのままダツがもらい、ズボンの右のポ ケットに飛竜入りのブラジャーを押し込めると、ダツは自転車を漕ぎだした。まもなく、 ポケットから頭を出した飛竜が言った。
「オレは、キミの喜びという名の苦痛だ」

《Ｐ市役所市民生活課調査係からのリポート NO49》
　調査日時＝１９９×年10月29日、午後12時35分
　調査場所＝Ｚ町２丁目17番サワラさん宅前庭及び宅内
　調査物＝透明な無数のブロック状物体（注：調査対象物は基本的に25cm×15cm×５cm程 度の大きさで、やや黄緑がかったガラス状の硬質な物体）
　調査物の数＝サワラ家敷地内のごく一角のみの数量を試算したところ、２千個相当が数 えられたが、当該敷地内のすべての対象物を計測することはできなかった。推定では１万 個を越えるものと思われる。
　調査物の所有者＝前記現住所に在住のサワラ家の一女サヨリさんの所有と思われるが、 戸籍筆頭者のサワラ家主人の所有となるかどうかは不明。
　調査の動機＝一般住宅に見られないガラス状の透明なブロックの山積みを発見し、その 材質調査と大量な放置（注：当該サワラ家所有の敷地内に整然と山積みされているので、 「放置」ではなく「貯蔵」という表現がふさわしいものと思われる）の実状とその理由の 調査が必要と考えられた。
　調査結果によって判明したこと＝当該ガラス状のブロックは、前記現住所在住のサワラ サヨリさん（20歳／女性）の排出した尿が、国立腎臓専門センター医師の診断による「エ メラルド症候群」によって凝固化したことによって生み出される特異な固形物である。直 方体の形状は、放尿時に収容する容器の形状であり、当該ガラス状のブロックは１日あた り５〜10個が新たに生み出されるものと考えられる。
　備考欄＝･････････････････

　Ｚ町からの帰り、喫茶店「マーメイド」に立ち寄ってリポートを書きながら、ダツは備 考欄のところではたとボールペンの動きを止めてしまった。
　何度リポート用紙を書いては破るという行為を繰り返したことだろう。ダツは、できる 限りこのリポートに私情を挟まず、冷徹な地方官吏らしい文章を心掛けてきたはずなのに、 最初の何回かのリポートには自分自身の情緒や感情のようなものが浮き出てしまうようで、 その度に書き直しをしたのだった。
　例えば、最初に書いたリポートの「調査物の数」の項目では、一日あたりの放尿回数を 年間の三百六十五日で掛け、さらにそれを十倍することで全体のブロック数の推定ができ るものと考えたが、サヨリの一日の放尿回数を想像することがそのまま放尿のシーンを想 像させるためにやめてしまった。ダツの頭の中では、すでに尿がエメラルドの固形物に変 質するその瞬間のおぼろげなイメージがあり、そのことはつまり、サヨリがサワラ家のト イレに入ったり、パンティーを下ろす具体的な行為のイメージに近かった。
　調査物の所有者の項目では、明らかにサヨリ以外の所有者がいるはずもないことは分かっていながら、敢えてそれをボカしてしまった。調査結果によって判明したことの第一に 書きたかったのは、それがえも言われぬ美しい塊だということのはずだった。
　また、サワ ラサヨリの細く美しい裸身や濃紺に繁る下腹部の陰毛は、この際リポート内容に何の関 係がないものだとしても、それを詳細に書き記したい欲求にも駆られた。リポートに記し た「尿」という言葉と、サヨリが自ら口にした「おしっこ」という物質とは、実態からし て何だか別物のような気さえした。
　備考欄に何度か書きかけたのは、空気に触れた瞬間に凝固するというサヨリの証言を裏づけるものは何もなくて、あのエメラルドのブロックがサヨリのおしっこである証拠を、 現実的にはダツ自身がまったく確認していないという困惑の気持ちだった。
　結局、ダツはリポートNO49を完成できないまま、その日の仕事を終えた。ナガラミ荘に 帰って倒れ込むようにベッドに横になると、飛竜がポケットから這い出してきた。ポケットからサヨリの青いブラジャーのヒモの部分をつまんで引っ張り出しても、飛竜はもうそ れには何の関心も持たない様子だった。ブラジャーと一緒に、サラサラと砂のようなもの がベッドにこぼれ、ダツはそれがいつかポケットにしまい込んだカニエ夫人のシャボン玉 の残骸であることに気づいた。
「分かったかい、オレはキミの記憶だ。オレには、サワラサヨリの青白い裸身と、彼女自 身が踊って見せたスネイク・ダンスが焼き付いている」
　飛竜が珍しく長いメッセージをダツに告げ、空になったダツのズボンの右のポケットに 再び入り込んで行った。