第二章　≪Freezing Friday 　立ち竦む金曜日≫ 　
　その４

＜I was lost＞ 　
　ベルは、同じ言葉を繰り返した。そして、青ざめたベルの表情は、佐田との距離を遠ざけるかのように凍りついていた。 　
「I was lost？何かをなくしたって？」 　
　とっさに考えた佐田に、ベルの言っていることは飲み込めなかった。電話の向こうで、吉田京子の声が聞こえてきた。 　
「帰ってきたの？ベルさん、帰ったの？」 　
　それに気づいて、佐田は言った。 　
「ごめん。今、帰ってきた」 　
「で、彼女、大丈夫なの？　何だったの？」 　
「ああ、She was lost････。どうしたのか分からない」 　
「へえ、どこでどうして迷子になんかなっちゃったのかしら」 　
　初めて、ベルの言葉の意味が佐田にも分かった。ともかく、ベルは無事に帰ってきたのだし、吉田京子に非礼を詫びて、佐田は電話を切った。 　
　振り向くと、食卓の上に肘をつき、照明のせいかいつもよりやや赤っぽく見える茶色の髪の奥深くまで指を指し込み、掌全体で額を抱え込んでいるベルがいた。再び、ベルが呟いた。 　
＜迷ったの。迷ってしまったの＞ 　
　佐田は一瞬、ベルの背後に回って抱擁しようと思った。しかし、ヒビの入った陶器のようなベルを抱くことはできなかった。
　佐田が正面に腰掛けると、ベルは少し顔を逸らすように横を向き、押し黙ったまま、なおも身動きしなかった。速い呼吸のたびに、肩だけがせわしく上下した。 　
＜ウイスキーか何か飲む？＞ 　
　ベルは首を振りながら黙って立ち上がり、台所の流しでコップに水を入れて食卓に戻ってきた。 　
＜ごめんなさい。ごめんなさい＞ 　
　ベルは謝り続け、時々コップの水を口に含んだ。佐田も、ウイスキーのグラスを手元に引き寄せ、とりあえずの安堵とともに一口飲み込んだ。飲んでからも、佐田は迷っていた。＜一体、どうしたんだ？＞と聞くことは、まるで不正をしでかしたベルを尋問するようなことになりはしないか、だから、佐田は黙ってベルが口を開くのを待った。 　
＜一度、家の前まで帰ってきたの＞ 　
　ティッシューで鼻を拭きながら、涙にまみれてベルが話し始めたのは、五分ほど経ってからだった。 　
　吉田京子の電話の通り、一人になったベルは、佐田の実家の近所を十五分ほど散歩し、一旦帰ってきた。しかし、外に漏れる窓の明かりから、小村たちとの打ち合わせがまだ終わっていないことを知って、もう一度港の方に足を伸ばしてみようと思った。ところが、しばらく歩き、石造りの郵便局の古い建物の近く、と言うから番町あたりで営業中のスナックを見つけ、好奇心で入ってみた。比較的明るい店内は数人の客で賑わっていた。ベルは好きなスピリッツを注文し、飲んでいると、客の中から二人の男が近づいて来る。一人は、明らかにベルと分かっているらしく、笑いながら「コンバンハ」と、ベルの隣に腰を下ろした。 　
＜誰だと思う？ほら、昨夜駅からここに来るまでの間に会った人、自転車に乗っていた人よ。ミスター・タケーイよ＞。 　
　佐田は、竹井の名前がベルの口から出るよりも前に、その男が竹井に違いないと感じ、瞬間、かっと頭に血が上った。同時に、今夜は忘れかけていた、「やられちゃうよ、あんな外人さん」という竹井の言葉と、下卑た笑い顔が、あたかも目の前にあるように甦った。
「I was lost」と聞いた最初は意味を履き違えた佐田だったが、頭の中でその言葉は再び、ベルが何か大切なものをなくすなり、奪われたりしたのではないか、という不穏なイメージを伴いはじめた。佐田の動悸は、胸の内の暗いシミが急激に広がるのに合わせ、下手なバスドラムのような性急なリズムとなってこめかみを叩いた。 　
「ベルは、道に迷っただけなんだ」 　
　心の中で、佐田は何度も何度も反芻した。しかし、だらしなく酔っ払った竹井の黄色く濁った目を思い出すばかりで、好材料らしきものは何一つ見出せない。竹井たちのボトルのウイスキーを勧められ、それから二杯ほど飲み、三十分ほどでベルはそのスナックを出た。竹井たちとは結局、さしたる会話もないままだった。 ＜タケーイは酔っていたけど、別に不快な思いをさせられた訳じゃなかったわ＞ 　
　ああ、酔っ払いのベル。スナックを出たベルは、そこで改めて、自分が酔っていることに気づいた。歩き出したのは良かったが、一向に見覚えのある町並みに行き当たらない。考えてみると、ベルは佐田の実家のある町名も、電話番号すら知らされていなかった。それは、ベル自身にとっても馬鹿げたことだった。突然、ベルは自分自身が信じられなくなった。そして、パニックに陥った。さっきまで訪ねていた吉田京子の家も、佐田の実家と同様、どの方角にあるのか分からなかった。しばらく歩いて、今度は竹井が飲んでいるあのスナックに戻ればと思ったが、混乱に陥っているベルには、それさえももはや失われた架空の地図上の場所でしかなくなっていた。 　
　そこまで話して、ベルの嗚咽はもっと激しくなった。 　
＜もう気にしなくてもいいじゃないか。帰って来れたんだから＞ 　
　佐田の慰めの言葉は、何の効力も発揮しなかった。それほどベルは、打ちのめされていた。佐田は、テーブルの上の左手をベルの方に伸ばしてた。すぐにベルの両方の掌が重なり、強く握り締めてきた。その力は、佐田が驚くほどの強さだった。 　
＜また失敗しちゃったの。お酒で＞ 　
　ベルにとって今夜の失敗は、正体をなくすまで飲んで経験をした、これまでの数回の不快な思い出を甦らせていた。 　
　一つは、ゴールデン街の行きつけのバーのマダムや飲み仲間との温泉旅行で、メンバーの内の「センセー」と呼ばれる中年男に、深夜の寝床を襲われた苦い思い出だった。酔客同士の安心感から、完全に無防備だったベルに、深夜センセーの手が胸に伸び、ベルの乳房は強くわしずかみされた。「離して」という言葉さえ出なかった。ベルがセンセーの目を凝視すると、無言でセンセーは離れ、静かに自分の寝床に帰って行った。恐怖と恥辱と、そして酒による自分自身の犯した失敗の経験として、そのことはベルに記憶されていた。　
　ああ、酔っ払いのベル。いつも人見知りが強く、どちらかというと警戒心の旺盛なベルが、吉田京子の家で飲み、スナックで飲み、その挙げ句、酔って常軌を逸脱してしまった自分自身が許せない、という心境なのだった。 　
　ベルの両手はいつの間にか引かれ、再び指定位置の額に戻っている。 　
　それにしても、と佐田は考えた。 　
＜結局、君一人でこの家を見つけられたの？＞ 　
　佐田の質問に、ベルは首を何度も横に振った。 　
＜送ってもらったの。誰か知らない男の人に＞ 　
　ティッシューで拭いた鼻は、佐田の目に滑稽なほど赤く変色していた。 　
＜マコトの名前を出したら、ＯＫと言って黙って連れてきてくれたわ。あなたに会ってくれと頼んだけれど、英語が通じなくて、黙って帰って行ってしまったの。とても静かな人だったわ＞ 　
　背丈や年齢や特徴をベルに尋ねてみたが、そのもの静かな見知らぬ男に送られる間、放心状態だったベル
は、男の顔さえ見ていなかった。佐田にも、その男が誰なのか、心当たりさえない。 　
　やがてベルは憔悴しきった顔で横になりたいと訴え、自分にあてがわれた部屋に入ると、引き戸を閉めた。佐田は、ベルの部屋に布団が敷いてあるのか気になり、戸の前でベルの名前を呼んでみた。　
＜一人になりたいの＞ 　
　ベルの声は、部屋の中に入ってからも、まるで立ち竦んだ迷子のように震えていた。