第三章　≪Saturated Saturday　飽和された土曜日≫ 　
その5

　表に出て、栄寿司の引き戸を閉めると、佐田は、孤立した自分を意識した。もう入口からは店内に戻れな
い、と思った。 　
　人通りが激しくなっていた。しかも、その動きは緩やかになっていた。 中央町の方を見ると、もう群衆の壁が三十メートルのところまでやって来ていた。群衆の中の、こちらを向いた表情には、どれも笑顔があっ
て、この流れも、いつもの年と同じようにぼつぼつこの辺りで山側に押し戻される頃合いだ、と読んでいるようにさえ見えた。
　群衆の壁の向こうに、もうもうと立ち上る男たちの熱気の昇華が見えた。遠くでは、「ワッ、ワッ、ワッ」としか聞こえなかった掛け声が、佐田にも聞き覚えのある「ワッショ、ワッショ」と、はっきりと聞こえる。 　群衆の壁の隙間から、流れも見えてきた。流れは、数秒の間に一メートルほどこちらに接近したかと思う
と、その半分ぐらいの距離を押し戻されていた。佐田の予想よりも早く、流れは栄寿司の前に到達しそうに見えた。 　
「なんだあ、この野郎！」 　
　圧倒的に響き渡る掛け声の中から、それでもはっきりと聞こえてきた怒声は、流れの先頭付近からのものらしく、喧嘩が起こっている様子だった。群衆の壁の一部が砕け散るようになって、こちらに駆け出して来る者もいた。女の悲鳴が聞こえ、どこかの店のシャッターに何かがぶつかる衝撃音がした。一瞬、流れは止まったかのようになったが、掛け声は続き、数秒後には再びこちらに移動している感じになった。 群衆の壁から去る者、これから壁に取りつこうと近づく者で、佐田の脇を通り抜けたり、横に並ぶ者が増えてきた。佐田は、後ずさって、路地の入口を確保した。目の前を通り過ぎる者はあっても、流れが来ればここで立ち止まる訳にはいかない、といった場所だった。 　
　海側から、また新たに四、五人の男たちが、流れに飛び込んでいった。それと同時に、壁として取りついていた群衆の一部が、こちらに弾き出されたような格好になった。 　
　佐田の気づかないうちに、流れから出て来たのか、一軒一軒の商店から出て来たのか、通りの片側の栄寿司寄りに、締め込み姿の男たちが並んでいた。中央町方面にばかり気を取られていた佐田が、反対側を振り向くと、そこにも十人ばかりの締め込み姿の男たちが潜むように立っていた。その時初めて、佐田は小村グループの具体的計略が分かった気がした。その間にも、次々と群衆の壁たちが、佐田の目の前を海側に押し出されてきた。 　
　流れの先頭が、はっきりと佐田にも見えた。掛け声は再び、聞き慣れた「ワッショ、ワッショ」ではなく、遠くで聞こえた「ワッ、ワッ、ワッ」という呻き声になっていた。足の裏には、はっきりと地響きが伝わってきた。 　
　流れの先頭の男たちは、むしろ山ん衆が大部分を占めているはずだった。彼らは、この劣勢の流れを山側に押し戻す役割を持っているはずだが、中心部に向かって突進して行くと言うよりも、中心に背を向け、懸命に流れの力を背負っている感じだった。佐田は、最初に流れの先頭を見た時、知った顔がいないか、思わず捜していた自分に苦笑した。どの男の顔も、上気して、歪んでいた。 　
　すでに、流れの先頭は、栄寿司の路地を行き過ぎていた。どこにも一般の群衆の姿は見あたらなくなった。すべてが、締め込み姿の裸の男たちだった。 流れに取りつく位置を変えようと、若い男が佐田の胸を突いて路地に入り込もうとした。佐田は、半歩ほど退かされたが、すぐに若い男は流れに突っ込んで行った。 　 　　流れとなった肉塊は、呻き声を上げながら、佐田の目の前一メートルを、溶岩のように移動していた。 　 「××さん、こっちこっち！」 　
「まだだ、おい、まだ！」 　
　流れのあちこちでする、男たちの怒声や早口の指示やら要請の声が、路地の入口で停止している佐田にとっては、ちょうど目の前の本のページをめくるように聞こえてきた。そこを通過すると、照明があたり、何かが見えてくるように、スポットが当たって聞こえてくる感じだった。 時々、流れから弾き出されてぶつかってくる男たちはいるが、路地の入口は、佐田が当初考えていたよりも安全な場所という気さえしてきた。しかしそれも、目尻や口から血を流し、それでも流れに食らいついている男たちを見つけたり、たまたま路地に立っている締め込み姿でない自分を見つけた男たちの視線に明らかな敵意を感じると、一遍にかき消されてしまった。 　
　実際、男たちの佐田を見つけた時の眼は、異様だった。白い碁石の中にたった一つ黒が混じっていて、排除しようという目つきだった。
　知った顔がいるような気がした。それが、誰なのかは分からなかった。すべての男の顔が、同じに見えた。 　 いつの間にか、佐田は、最初に立っていた場所から五十センチも後ろに下がっている自分に気づいた。 　 「ワッ、ワッ、ワッ」と、腹に響く音は、もはや音であって声ではなかった。肉塊が鼓動する、肉塊の細胞が増殖する、膨張時に発する軋みの音だった。佐田自身の内臓の一つ一つが、その軋みの音とともに脈打つ感じだった。 　
　目の前で、一人の男の拳がもう一人の男の顎を打ち砕く音が聞こえた。呆けたように、一瞬、殴られた男の視線が宙をさ迷った。殴った男が、まるで倒れそうな男を庇うように、躯ごとぶつかっていった。 流れから脱落しそうになった肉片が、再び肉塊の一部になっていくようだった。 　
　佐田は、流れの、言いようのない熱さを感じた。溶岩のようだ、と感じた通りの、触れることのできない熱だった。引き込まれることは、死を意味することに違いなかった。 　
「俺は、お前たちと違う。引きずり込むな」 　
　もちろん流れに、締め込み姿でない佐田が引き込まれるはずはなかった。そのための、一人の観客としての装いだった。 　
　佐田の前を、流れに逆らって動かない数人の男の背中が囲み、肉塊の揉み合いが見えなくなった。
　流れは、その不動の背中の男たちを飲み込もうとしていたが、背中たちは、数十秒の間、頑として動かなかった。 背中の向こうで、これまでにない殺気のようなものが感じられ、流れが止まったようになった。 ずっと続いていた罵声と怒声の中に、奇妙に冷静な声が聞こえてくる感じもした。 　
　次の瞬間、不動だった男たちの背中が、佐田に向かって倒れかかってきた。 佐田の片側の腰に、バイクのハンドルらしい尖った部分が押しつけられ、痛みが走った。 　
「痛い、痛い、痛いっ！」と叫んだのは、佐田ではなく、倒れかかってきた男のうちの誰かだった。 背中の間から、誰かの腕が伸び、佐田に掴みかかってきた。さらに、別の腕が、佐田のみぞおちをえぐった。 貧血を起こし、その場にうずくまりたい感触だった。胃液を、口の中に感じた。 ドンッ、と異質な物が、佐田の腹に命中した。胃液が、口の端から飛び出るのが分かった。 佐田の腹にあるのは、御玉さんだった。生まれて初めて見る木塊だった。 意外なことに、木塊には麻縄のようなものが十文字に巻かれていた。それを知ったのも、初めてだった。 倒れないよう、壁で支えていた右手を、佐田は外さない訳にいかなかった。左手だけでは、掴みきれなかった。何かに湿って、ぬめっとした麻縄の感触が、左の掌に感じられた。 前からの圧力で、佐田は背中を反らせる体勢になっていた。腰のハンドルが、食い込むように痛かった。 右肩で壁に凭れ、体重を支えたが、肉塊の圧力はもっと大きく、爪先立った脚が震えた。 両腕で、御玉さんを抱え込むことができたが、それ以上身動きがとれなかった。 何かが、おそらく誰か男の肘か何かが、佐田の鼻梁を打ちつけ、鼻の奥から喉にかけて、火傷したような熱が広がった。続けてすぐに、赤サビのような、しょっぱい味覚が舌に広がった。 　
「鼻血が出たんだ」 　
　佐田は、そう思った。背中の圧力がふっと緩んだ瞬間、佐田は躯を横に向け、次の圧力を半身の体勢で受けられるようになった。 流れに対して、背中を向けなくてはならなかった。背中を向け、できれば、うずくまる体勢になりたかった。意図的に、流れを佐田から遠ざけようとする腕が、何本も伸びていた。グループの男たちに違いなかった。 ようやく、少し姿勢を下げることができた。目の前に見えるのは、 裸の男たちの逞しく盛り上がった尻と、足袋を履いた足だけになった。 　
「早くしろっ、佐田！」 　
　誰かが、すぐ側で小さく叫んだのが、ざわめきの中でもはっきりと聞こえた。誰なのか、分からなかった。小村のようでもあったし、竹井のようでもあった。 目の前が、水色のシートに覆われたバイクだった。三十センチの向こうに、バイクと壁との間の隙間があった。左腕に抱え直し、右手で麻縄を握った。御神水なの
か、酒なのか、 それとも男たちの汗や唾や血なのか、掌に生温かいぬめりを感じた。少し持ち上げるようにして、佐田は、それを隙間の闇の中に落とし入れた。佐田の背中に覆い被さってくるような圧力が、急速に小さくなった気がした。しかしもう、佐田は立っていられない自分を感じた。サッ、と人の気配が離れ、その瞬間に、それまで堰き止められていたかのような胃液が、喉を突き上げた。佐田は、その場で吐いた。意識が薄れていった。すぐ背後で聞こえるはずの「ワッ、ワッ、ワッ」、という掛け声が、また「ワッショ、ワッシ
ョ」と、遠くの方から聞こえてくるようだった。 　 　
　どのぐらい、その場にうずくまっていたのか、佐田には分からなかった。いつの間にか、流れは消えていなくなり、通りの人影もまばらだった。流れが海側に行ったままなのか、それともどこかで戻して、山側に向かったのか、見当がつかなかった。 　
　佐田は、膨張している感じの鼻に手をやってみた。掌を見ても、鼻血が出ている形跡はなかった。しかし、鼻血独特の、あのサビのような味覚は、相変わらず口の奥に残っていた。 　
　うずくまっていた不明の時間前の自分が、飛んでいた蝿がたたき落とされ、背をキュンと丸めながら、まだ手足だけは擦り合わせている感じだったな、と佐田は思った。立ち上がって、ひどい空腹感にも似た腹の痛みを、みぞおちを中心に感じた。 　
「ちくしょう」 　
　吐き出すようにそう言うと、見知らぬ敵を捜すように、佐田は通りに出て、海側、そして山側の両方に視線を送った。路地の入口に戻ると、バイクの裏を覗き込んでみた。麻縄に巻かれた木塊が、ごろんと転がっていた。手はずでは、その木塊の下にある布袋に入れて、裏口から運び入れる予定だった。しかし、木塊を布袋に入れることには、何の意味もなかった。通りには人通りがなく、湿った麻縄の端を掴むと、ふらつきながら、 佐田は御玉さんを持って裏口から入って行った。奥座敷の襖を開け、御玉さんを畳の上に放り投げた。ゴロゴロと二回転ほど転がり、静止すると、薄暗がりの中で黒光りしているのが見えた。すぐに、大村が下駄を鳴らしながらやって来た。 　
「おお。やりましたねえ」 　
　言いながら、壁にあったスイッチを押し、照明が灯った。 　
「こうして見るのは、初めてですよ」 　
　誰もが、ほとんど誰もが、こうして間近に御玉さんを見るのは初めてのはずだった。 　
「だいぶやられました。横になっていていいですか」 　
　呷くように、佐田は言った。大村がカウンターの脇にいた妻を呼び、座敷に急拵えの寝床が用意された。佐田は、その座布団を三つ、 四つ連ねただけの寝床に、倒れるように腹這いになった。背中から毛布を掛けてくれているのは、大村の妻だろう。明かりが消え、襖が閉じられた。 　
「何も明かりまで消さなくても････」 　
　そう思いながら、気を失うように、佐田は眠った。 　 　

　明かりが点いていた。背中越しに人の気配がして振り返ると、吉田京子が座っていた。京子は、黙って佐田の方を見ていた。 　
「今、何時？」 　
　佐田が尋ねた。 　
「さあ、四時過ぎかしら････」 　
　言いながら、京子はじっと佐田の目を見続けていた。上体を起こして部屋の四隅を捜したが、御玉さんはもうなかった。 　
「みんなは？」と訊きながら、店の方に人の気配がないことに、佐田は気づいた。 もうすべては終わっているのかも知れない、と思った。 　
「大村さんはどうした？」 　
「もう、住まいの方へ帰ったわ。近いの。裏口から出れば、鍵は要らないって」 　
　佐田は、口の中にまだ嘔吐の臭いが残っている気がした。吉田京子の顔が近づいてきた。佐田の唇が、別の唇で塞がれた。女の肉の匂いがした。吉田京子が、佐田に貪りつくように躯を密着させてきた。掌に、柔らかい胸の肉の塊が感じられた。腹の上に、柔らかい女の腹の肉塊が重なってきた。 　
「吉田京子。吉田京子」 　
　女の名前が、佐田の頭の中を駆け巡った。それと同時に、佐田の手は、吉田京子の着ていた服を広げ、熱のある場所へと這っていった。 　
　すべてが、飽和状態だった。すべてが、飽和を通り越した虚無だった。そして、すべてが仕組まれたもの、すべてが、自分の支払うべき代償のように、佐田は思った。