第一章　≪Thirsty Thursday　木曜日の渇き≫
　その１

　東京は、匿名の人間たちの集まる場所。彼らは匿名の平凡な職 業と匿名の詳細な現住所で生き、唯一東京という固有名詞の街を共有する。 たとえばここに、どこか地方の故郷からやって来た人間を想像してみる。彼の故郷はどこかに存在するのに、その故郷とは、東京と いう固有名詞に比べ、とるに足らないわずかな情報しか発しない。 東京という街からすれば、Ｆ県Ｐ町もＱ県Ｊ町も、総じて田舎あ るいは故郷という概念に収束されてしまう。 東京という核心から遠心分離されたすべての故郷は、ただの記号 化された田舎Ａであ
り、田舎Ｂ、田舎Ｃでしかない。
　佐田誠は、フリーランスのコピーライターという、当人がそう言 い張らなければ世の中の誰も認めようとしない危うい職業で、辛う じて食い繋いでいる。彼もまた、業界人だけがＴＣＣとして知って いるトーキョー・コピーライターズ・クラブにさえ所属しない匿名の東京人だ。佐田誠はその日、自分がひょっとしたら愛しているのかも知れない一人 の女と東京を離れ、遠心分離された彼の故郷のＭ市に出掛けようと している。Ｍ市は、どこであってもこの際問題にはならない。故郷の持つ意味など、あくまで記号化された田舎Ａの延長線上にしかな いのだから。
　十一月の最終木曜日、晩秋の東京都心の朝はみぞれていた。どん よりと曇った上空と地表にかかる排気ガスにかすむ空気全体が、同 一の質量感をもって澱んでいる。 コの字型のマンションの中庭に面した玄関ドアに鍵をかけてい ると、下から聞き慣れない言葉の若い女たちの嬌声が響いてくる。 振り返って見下ろすと、マンション住人の駐車場になっているスペ ースに、これからパーキングしようと前後に移動している派手なアメリカ車が目に入った。金ラメに塗装された平べったいそのリムジ ンの運転席にいるのは男で、助手席にはミニスカートの女の足だけが見えている。すでに三人の女たちは車から外に出ていて、しきり に男の運転を冷やかしているのだと分かった。 フィリピンの女たちのようだった。一人は黒いタンクトップの剥 き出しの両腕を抱え込み、寒そうに前かがみになりながらも、リムジンが前後する度に大声を上げ、ハイヒールの足を踏み鳴らして笑 っている。別の二人はそれぞれにかなり大きめの白いＴシャツをだ ぶっと着てすそを出しているので、その下にショートパンツかミニ スカートを履いているのかどうかも分からない。タンクトップの女 よりも若い感じで、どこか遠慮がちにリムジンから距離をおいてい る。佐田の耳に飛び込んできた女の嬌声は、タンクトップの女のも のだった。
「スナオサ〜ン、ヘタ。ダメネ」
　運転席の男をからかいながら、かん高い声で笑う。
「ばかやろう、難しいんだよコレが」
　からかわれている男も、笑いながら応酬している。そのうち助手 席の女が何か大声でタンクトップの女に向かって叫んだが、タガロ グか何かの言葉で、佐田には意味が分からない。 表玄関からではなく、いつもと同じように非常階段から外に出た佐田は、マンションの駐車場を振り返った。すると、リムジンは駐 車し終ったらしく、女たちと運転の男はもう全員玄関に向かって歩 き出していた。女は四人だとばかり思っていたが、男の他に五人の 外国人女性がいることに気がついた。男が腰に手をまわしている相 手が、助手席の女なのか第五の女なのかは分からない。からだにぴ たりと吸いつくような白のミニスカートの腰の上に、金のブレスレ ットをした男の右手があった。
　東京の中の外国。東京の中の異邦人。それは佐田にとって別段驚 くには当たらない光景になっているが、今度の場合は少しばかり毛 色が違う感じがした。手配師の男と風俗営業で働く外国の女たち･･ ･･安直だがおそらく外れていない現実の風景を、このマンションで 目撃したのは初めてだった。
　黒の皮のジャケットの下は長袖のポロシャツ一枚だけで、薄手の セーターは下着と一緒に小脇に抱えたブティックか何かの紙袋の中に入ってい る。少し肌寒さを感じるが、電車に乗ってしまえば過剰なまでの空 調環境が待っているのだからと、佐田は自分に言い聞かせた。地下 鉄駅に向かって歩きながら、いつも時間を確認するカードショップ の中を覗き込んだ。十一時二十分を少し回ったところだ。佐田にとって、クライアントや代理店などとの時間の約束は大切だし、決して時間を気にしない生活というわけでもないが、腕時計 をした経験は学生時代以降はほとんどない。街を歩けばどこにでも 時計はあるし、地下鉄などの電車移動はいわば時間確認の作業にも似ている。腕時計が煩わしいという理由よりも、腕時計の必要性を 感じていないというのが佐田の言い分だ。 駅近くの銀行のキャッシュコーナーで金を引き出し、ジーンズの 尻ポケットの財布の中に突っ込んだ。 ベルとの待ち合わせは、十一時半のこの地下鉄駅のホームでとい う約束だった。 ホームに下りて行くと、すでにベルはベンチに腰を下ろし、膝の 上に広げた本を覗き込むように首筋をかがめている。肩のところで ほとんど水平にカットされた栗色の髪は、その姿勢で本を読むには 煩わしく、少し左に傾けた顔をこちらに向け、向こう側になってい る顔の左半分が隠れるように垂れ下がっている。
＜ハーイ＞
　佐田がほんの目の前まで近付き、声をかけるまで、ベルは佐田に気づかなかった。 型通りに二言三言交した後、二人は並んで立ち上がり、同 時に暗い洞窟の中から電車の滑走音が聞こえてきた。佐田とほぼ同 じ背丈のベルの髪が電車の風圧で舞い上がり、薄く上質な黒のバッ クスキンのジャケットのすそが揺れた。 電車の中で、佐田は初めて見るベルのジャケットについて尋ねて みた。案の定、彼女の新しい買い物で、値段を聞いた佐田はちょっ と大げさに驚いた素振りをして見せた。
＜同じ黒の皮ジャケットでも、君のジャケットは随分高そうに見え る。値段を聞いて納得だ＞
＜カードの分割払いなの。高いのは分かっているんだけど、すごく 気に入っちゃって、どうしても我慢できなかったの。それにカード はマジックね、まだ一度も払っていないのに自分のものになった感 じになってしまうから････＞
　佐田がベルをＭ市に同行しようというのは、数年もの間、帰省し ていなかったのが一つの理由であり、恋愛感情の一種のプレゼンテ ーションのつもりでもある。もちろん、故郷の小さな町の祭りとい う、外国人にしてみればエキゾティックな対象となるに違いないも のを見たいと言ったのはベル自身だ。 知り合ってほぼ半年、週に一度か二度は会っている佐田とベルだ が、二人にまだ性的な関係はない。一緒に酒を飲むために会い、時 に酔いつぶれて佐田のマンションにベルが泊まることはあっても、 なぜかセックスにまで結びつくことはなかった。佐田にそうした衝 動がまるでなかったかと思い返してみても、どうもはっきりしない。 ベルにもセックスを許容したり、進んでからだの接触を求めようと する姿勢はない。
　地下鉄を降り、東京駅から新幹線に乗り継ぐ。駅構内で母親用のごくありきたりの土産物を買うと、手提げの紙袋を渡され、佐田は 小脇に抱えていた数枚の衣類が入っている紙袋をその中に押し込ん だ。 新幹線の発車時刻を待っている間、佐田はなぜかベルとの関係に いつも通りの気軽さを感じない。そのせいかベルもどこか白々しく、 佐田と言葉を交わすでもなく、ホームのベンチに座ると、今朝最初 に会った時に開いていた本のページを見つけ、黙って読み始めてい る。佐田がそのカヴァーを見ると、トニ・モリスンの「ジャズ」だ った。読みたいと思っていた本だが、自分には原書で読むほどの集 中力はないし、そのヒマもないと佐田は思った。 新幹線の車内に入ると、平日の昼ということもあって乗客はまば らだった。進行方向左側の三人掛けの席の窓側二つに腰を下ろし、 佐田はベルの黒の皮のショルダーバッグと自分の手提げの紙袋を荷 物棚に載せた。ベルのショルダーバッグは、男の佐田の手にさえず しりと重く、彼女の趣味のカメラが入っているのだと分かった。 五分ほどで電車は動き出し、ゴロロロ、ゴロロロという新幹線独 特のまるでウォーミングアップのような音を響かせる。
　それにしても、と佐田は思った。ほんの少しばかりとはいっても、 自分もベルも今朝外出する時にはみぞれ模様の天気だった。それなのに、二人の荷物の中に傘はない。共通して用意の悪い二人のことを言葉に出して言おうかどうしようか迷っているうちに、車窓の 風景が猛烈なスピードで変化し始めた。 東京でのみぞれは、車窓に映るビルの密度が薄れるのと歩調を合 わせるように、あるいは楽曲がある瞬間に転調するようにはっきり と雨に変化し、その雨も乗り継ぎの駅に着く頃にはすっかり止んで いた。
＜乗り換えるよ＞と佐田が声をかけたのは、二時間近く経った頃だ った。その間、二人の間に会話らしい会話もなく、弁当に食べたサ ンドウィッチをほおばりながらも、ベルは時折本から窓外に視線を 移す程度で、佐田はベルの肩越しの風景をただぼんやりと眺めてい た。 在来線のホームにやってくると、数人の高校生らしい制服姿の男 女に出会った。バッグから取り出したサングラスをかけたベルの視 線が、周囲を訝しげにさ迷っていることに気づいた佐田は、駅名を 告げ、今では故郷となったＭ市に住む以前、まだ自分の父親が生きていた時のほんの一、二年間をこの町で暮したことがあると伝えた。
＜何か大事な思い出はある？＞
＜いや、何も。なにしろ僕の二、三才の頃のことだから＞
　女子高校生らしいセーラー服姿の二人連れが、ホームのベンチに 腰掛けている黒ずくめの奇妙な二人連れを見て、好奇の視線を送っ た後、きゃっと嬌声を上げて小走りに去って行った。 ベルはそんなことには気づかないという風に、再び読みかけのペ ージを探し始める。しかし、佐田にはどこか外国人の女と連れ立 っているという違和感があって、女子高生の嬌声の意味は何なのか、 あるいはあの嬌声の原因は自分たちとはまったく関係のない別の事 柄だったのかも知れない、などと考えていた。 ベルと連れ立って歩く東京では何の不自然さも感じないが、ベル と二人で立つ田舎では、すでに佐田の心に緊張が走っている。 Ｍ市に向かう在来線の到着まで、三〇分近く待たなくてはならな かった。途中下車して、この町のどこか喫茶店にでも入ろうかとい う佐田の提案に、ベルは小さく短く首を横に振った。
＜オーケー、じゃここで待とう。売店にでも行って何か買ってくる よ＞
　さっき自分たちが降りてきた階段の蔭に売店がある。佐田は、ゆ っくりと立ち上がり、まるで時間つぶしのようにゆっくりと歩き始 めた。確かにそれは、時間つぶしなのだ。今、佐田が欲しいものは 取り立ててない。佐田は振り向いた。
＜何か飲むものは？＞
　ベルは本から顔を上げ、ちょっと考える素振りをした。
＜ビール以外なら････＞
　分かったという合図に、佐田は片手を上げ、今度は歩調を早めて売店に向かった。酒なら何でも飲むのに、ベルはビールを一切口に しない。しかし、佐田はビールが好物だ。 売店で缶ビールと燗のついた日本酒を買って、佐田はベルの座っているベンチに戻ってきた。ほら、と差し出した日本酒を見つけて、 サングラスの奥のベルの視線が和らいだ。
＜日本じゃ、こんな昼日中に女性が酒を飲むなんて、アンビリーバ ブルなことなんだよ＞
　佐田はわざと大仰な口振りをしてみせたが、そんな程度のことは ベルは知っている。 ふふ、と笑みをこぼしながら、熱いほど燗のついたガラス徳利に 指を這わせ、佐田にグッド・アイデアと告げた。 再び、二人の間に沈黙の時間が流れる。ベルは本を読みながら、 猪口代わりになっている徳利のフタに酒を注ぎ、あっという間に三 分の二ほどを空けた。佐田は、缶ビールを一息に半分ほど飲み干す と、ポケットに突っ込んだ手で皮ジャケット越しに缶を握ると、ベ ンチに深く座り直して、幾重にも平行に走る赤茶けたレールや枕木 を眺めていた。
　佐田の耳に、なぜかまだ女の嬌声が残っていた。考えてみたらそ れは、ついさっきの女子高生の嬌声ではなかった。もっと艶めかし く、もっと意志的だったあのマンションの駐車場で聞いたフィリピ ン人の女たちの嬌声だった。 明らかにやくざまがいの運転手と五人の若い外国人女性たち。佐 田の住んでいるマンションはほとんど全室が同じ間取りの３ＤＫで、 きっとどこかの階のどこかの部屋番号に、ひょっとするとあれより もっと多くのフィリピンや東南アジアの女たちが共同生活をしているのに違いない。女たちはどこかのキャバレーかクラブのような場所で朝まで 働き、どこかで朝食をとった後、店の関係者であるあの男のリムジ ンで送り届けられたのだろう。 しかし、と佐田は思った。それならなぜ、リムジンは定期契約の はずのマンション駐車場の競争率が激しい中で、あのスペースを確 保できたのだろう。日中、比較的マンションにいる時間の長い佐田 にしても、あのリムジンを見たのは今朝が初めてだった。 そんなことはどうでもいい。本当に自分は彼らの奇妙な登場その ものに好奇心を感じたのだろうか。いや、正直に言えば、二十歳そ こそこの若いフィリピンの女たちのあの嬌声やしなやかな肉体に、 理屈抜きに目を奪われた自分がいたのだった。白状しろ、と佐田は 自分に言った。実際、黒のタンクトップの女の腕は、そこから続く 形のいい乳房への稜線をほとんど露わにしていたし、白のミニスカ ートの女の足は、まるで足そのものが性器ででもあるかのように褐 色の光沢をぬらりと鈍く放っていた。少なくとも、値札のついた女 の肉体がそこにある気がした。そのチープな肉体は、しかし圧倒的に若い人間の生理臭をまき散らしながら、躍動するようにマンショ ンの玄関へと消えて行ったのだった。 佐田は、見知らぬものへの好奇に駆られて戸惑ったのではなかっ た。むしろ、あからさまな性的な刺激を、それも意表をつく形で受 け、うろたえたのだった。 そのことと、今日から始まるベルとの帰省旅行とは無縁ではない、 とあらためて思った。
　傍らに、佐田との関係をどう考えているのか分からない女がいる。その女は、明らかに外国人女性であり、日本 語を話さない女だった。ベルのからだは、佐田の手の届くところに あった。
　やがて列車の到着時間が近づくと、階段からホームに予想もでき なかった人数の乗客が現れはじめた。その大半が高校生らしく、思 い思いにグループを組んでやって来る。それでも、東京の駅の混雑 に比べるまでもなく、滑り込んできた列車に入ってすぐに、二人分 の座席は容易に確保できた。 二人の席の前には、ややくたびれかけたグレーのコートを着込ん だ中年の男が座り、開いている座席の上に自分の持ち物を置き、何 びともこの席に座ることを許さないといった風に、通路に向かって 足を斜めに投げ出している。そのおかげで比較的スペースに余裕の ある窓側にベルを押しやり、佐田は男の足と接触しないよう、男の 足の間隙に自分の足を収めるような姿勢になった。 列車は、佐田が一つ一つの駅名を思い出させる日めくりカレンダ ーのように、ゆっくりと走り、走っては停車を繰り返す。 窓の外の右手には山が、左手には時折海が見え、故郷のＭ市が近 づいたことを知らせる。 Ｍ市の三つばかり手前の駅で、二人の目の前に座っていた中年の 男が下車した。立ち上がりながら、男はベルに視線をやり、チッと 舌打ちのような音を立てた。
　いつの間にか外は薄暮に包まれ、小さな丘陵やほんの数秒の間に 通過してしまういくつかのトンネルを抜けるごとに闇色を濃くして いく。窓に目をやると、すでに窓外の景色よりも車内の明かりの反 射光が強く、佐田は窓ガラスに映るベルの横顔を眺めている自分に 気がついた。 列車はそこがまるで最終到着駅であるかのようにもったいをつけ てスピードを落とし、ゆっくりとＭ駅のホームで静まり返った。数 人の男女の高校生を含む十人に満たない客をホームに吐き出すと、 連結部分の音を鈍く発しながら再びゆっくりと発車していった。
＜さあ、ここだ＞
　ホームに降り立ってすぐに、佐田はベルの気分を高揚させるよう に言った。
＜暗いわね＞
＜ああ＞
　六時をちょっと回った時間なのに、実際ホームから見える町の灯 りは点在というのにふさわしい。 けばけばしく表装を施した東京の各駅に比べ、Ｍ駅はみすぼらし いほど新しいだけの建材の屋根や壁の駅舎本体とは不釣り合いに、 やつれた階段のここかしこに、明らかに洗練されていない地方デザ イナーや駅員の手になる観光・旅行ポスターがまばらに脈絡なく掲 示されている。そのことに目が行くのは、佐田が十年以上も広告の 仕事をやってきたからなのかも知れない。
　ベルは駅舎を見て、少しばかり失望しているようだった。Ｍ駅は 確かに田舎らしい田舎の駅というには、少しばかり規模が大きい。 そしてまた、ベルが知っている観光地の駅のさまざまな案内看板が 所狭しと並んでいる賑やかさもない。しかし、Ｍ駅は、田舎駅の標 準値そのものといってもよかった。 ほぼ二年間の日本滞在中、ベルはそのほとんどを東京で過ごし、 たまに職場の英語学校の仲間たちや行きつけのバーの常連客と出掛 ける旅行地は、鎌倉や日光、箱根、那須など、旅行客に向かってあ らかじめ化粧を施された街や施設だ。それらがどれほど抜け目なく 意匠された日本の風景だからといって、彼女にとって決して不快な ものではなかったし、たとえそんな場所にさえも十分な日本のエス テティックスを感じることができる、と以前ベルは佐田に話したこ とがある。 しかしＭ駅で見る、密度の薄いメッセージボードの数と、数に比 例した質の貧しさを露呈する見せかけは、日本のそこかしこで見る 野卑で野放図なバイタリティを感じさせることもない。ベニヤ板一 枚あるいは発砲スチロール一塊で、毎日ガラリと姿を変える新宿の 裏通りなどが持つエネルギーを、ベルは好きだと言ったことがある。
＜ポスターがさえないね＞ と、佐田は同調を求めた。
＜そう？でも、分かりやすいわ＞
　ベルはまるで佐田を気づかうように言った。
＜君は新宿ゴールデン街みたいに猥雑な雰囲気が好きだからね＞
　佐田は、おぼえたてのsleazyという単語を使ってみた。
＜だって、ゴールデン街は特別なところよ。あそこにはステレオタ イプで安っぽい日本のサラリーマンの好みに抗おうとする人たちだ けが共有できる解放区のような臭いがあるんだから＞
　酔っ払いベルの、それは甘い感傷のようだ。しかし佐田は、ベル のそんな見方を肯定していない。かつて十年、二十年も前ならとも かく、ゴールデン街に集まってくる人間の大半が、ベルの言うよう な解放区幻想を抱いて、しかし今日という時代にどこか適合できず に、現実生活のネガティブなはけ口として利用しているに過ぎない 印象を持っている。 ベルの観察にはどこか外国人らしいイノセンスがあり、ゴールデ ン街という存在が解放区幻想をもたらしていたのは遠い昔のことだ、 と佐田は思っている。 ベルは、日本という国にイノセントだ。もちろんそれは、外国人 に共通するものだが、同時にベルの屈折した内面を、いつも佐田は 考えている。彼女のこれまでの人生の境遇を聞けば、佐田でなくと も容易にベルの人間的な、あるいは人格的な混乱は想像できるのだ。
　外 交官だという父親の仕事の都合で、ベルは生まれてこの方、世界中 の同一都市に五年と住み続けたことがない。ロンドン、カイロ、ベ イルート、シンガポール、ロスアンジェルス、シドニー、メルボル ン、香港そしてトーキョーというのが、彼女の人生の転籍簿のあら ましだった。そして彼女は、一応オーストラリア国籍ということに なっている。 今のところのベルの最終地点となっている東京が、なぜ彼女自身 によって選ばれたのか、佐田は多くを質問したこともなかった。つ き合い始めの頃、有力な理由の一つだったに違いない経済的根拠は、 このところの不況で英語学校にもダメージをもたらし、職場に関す るベルの不満を聞いてやるのも佐田の重要な役割になっている。仲 の良い教師仲間の突然の解雇や受け持ち授業数の増加など、不満を ぶちまけるのと同時に、この頃ベルは早く日本を離れたいと言い始 めていた。 決して熱心な英語教師とは言えないだろうベルの姿勢は、しかし 佐田の観察によると、彼女の持っている最終学歴とか、あるいはサ ラリーマンを中心とした英語学校の生徒たちの評判によって失業の 危機から免れているようにしか思えないものだ。
　 一方の佐田の大きな住所変更は、Ｍ市から東京という一回限りで、 この二十年間近くそれは停滞し続けている。佐田にとっての東京は、 かつて故郷に住み続ける理由がなくなった青年たちの自動搬送地帯としてあったのだし、ひょんなことから始まった広告マンとしての生活に最良の便宜をもたらしてくれる唯一の場所ということができるに過ぎない。
　 Ｍ駅の改札を出て、待合の横を通り抜けようとすると、佐田は脇から強烈な視線を感じた。ふと見ると、駅舎の隅に一目で中東風と分かる男たちが三人で手持ちぶさたに腰を下ろし、タバコを吸っている。東京で見慣れた光景も、故郷のＭ市で見ると、意外な驚きに感じる。中で、立ち上がれば一番背の高いはずの男が、茶色のジャンパーの肩越しに見上げるように、ベルのからだに視線を這わせた。 視線は一瞬のことではなく、カメラがパンするようにゆっくりと下 から上へと持ち上がっていった。 同伴者として不意を食らった気がした佐田は、少し慌ててベルの背中を押すように駅前の広場に急いだ。薄いジャケット越しにベル のブラジャーの留め金を掌に感じると、今度はそれがひどく性的な 感触に思われた。ベルの背中が思った以上に骨ばって硬い感触として掌に残った。 異様に光る目の褐色の肌の男たちの視線に晒されながら、白人の女に性的な接触を感じた、という事実が、佐田をますます狼狽させ た。歩きながら、佐田はどんどんと心臓の鼓動が速くなるのを感じ た。額の脇がひやっと汗ばみ、両耳の後ろに悪寒が走った。ベルは自分と同じようにあの忌まわしい視線を感じただろうか、と佐田は思った。 三人の男たちの、すべてを見透かしているかのような大きな目。 ちょっとした距離から見ると、まるで瞳の奥に暗黒が隠されているような光る目。その目には、それほど遠くない過去に出会ったこと があった。