第二章　≪Freezing Friday 　立ち竦む金曜日≫ 　
　その３

　十五分もしないうちに、家の前でエンジン音が聞こえ、すぐに勢いよくドアの閉まる音が聞こえた。玄関口までベルを見送りに出た佐田が「申し訳ない。吉田さん、よろしく頼むね」と告げると、京子は、「いいえ。私も久し振りに英語が喋れるんで、嬉しいの。それに私、ベルさんのことすっかり気に入ったわ」と、ベルの腕を取って、はしゃいだ素振りを見せながら出ていった。 　
＜マコト、一人だからって、飲み過ぎはダメよ＞ 　
　出しなにベルが、冗談混じりで陽気に言い放った。食卓に戻ると、佐田は何本目かの開栓されてやや気が抜けたようなビールをグラスに注ぐと、それを呷った。大きく嘆息をつくと、嘆息と一緒に代償のかけらの幾つかが、音を立ててテーブルの上にばら撒かれたような気がした。 　
　佐田は、吉田京子のことを、同級生時代からの習慣でずっと「吉田さん」と呼んでいた。それはなぜか、恋愛関係にあった時も変わらず、いやむしろ変えられず、吉田京子を自分の腹の下に組み伏せていた時にも、佐田にとって吉田京子は「吉田さん」だった。今思うと、そのことが不思議だった。佐田の心の中で、吉田京子は、決して「京子さん」にも「京子」にもなったことはなかった。しかし本当に、彼女のからだを貪っていた時に、彼女の存在認識を「吉田さん」としていたのだろうか。ぼんやりと、佐田は考えていた。 　
　ベルは「ベル」であり、ベルが「ベル」であり続ける二人の関係のために、佐田自身は「マコト」と呼ばれることにようやく慣れ始めていた。「マコト」という呼ばれ方は、佐田には本来馴染みのないもののはずで、かつてそう呼んだのは、母親や姉、そして一部の親戚、小学生時代の教師････。恋愛関係がある期間続いて、佐田にとって吉田京子が「京子さん」にも「京子」にも変化しなかったある日、何かの拍子に、吉田京子から「マコト」と呼ばれたことがあった。そのことがなぜか当時の佐田には息苦しく、不快感さえ感じた記憶がある。若い恋人同士ならごく普通のはずの、甘美な呼び掛けを、凭れ掛かってくる重荷のように感じてしまったのだ。 　
　さっき最初に京子がここにやって来た時、小村を「幸ちゃん」と呼んだのを聞いて、佐田は少し違和感を覚えた。佐田を「佐田君」と呼ぶように、高校時代の京子は小村を「小村君」と呼んでいたはずだ。妻子持ち
で、三十五歳とはいえすでに中年太りした小村は、京子に「幸ちゃん」と呼ばせる安心感があるのだろうか。それとも、流れる歳月の中で、同じ町の住人同士が、安寧と俗化の中で暗黙のうちに呼称変更の手続きをしていくのだろうか。 　
　佐田はふと、Ｍ市に帰った自分がもはやよそ者でしかないこと、以前ベルに「Alien 」という英語は決して映画のグロテスクな怪物を指す言葉ではなく、入国手続き上の法律用語として外国人を意味し、時にはハグレ者の意味にも使える言葉だと教わったこと、しかしこのエイリアンの気分は何も今に始まったことではなく、少年時代を過ごしたＭ市でも、十五年以上も住んでいる東京でも、いつも自分にはエイリアンの意識がある、そんなことを考えていた。そして、そのことと「佐田」である自分、「マコト」である自分とが、何か関わりがあるのではないか、と考えた。小村も、吉田京子も、自分を「佐田」として迎え入れ、決してエイリアンと見ている風はなかった。しかし自分は、小村幸一を「小村」と呼び、吉田京子を「吉田さん」と呼び続ける。決して、「幸ちゃん」とも「京子」とも呼ぶことはなかった。また、ベルから「マコト」と呼ばれることはむしろ快感でさえあるのに、かつてほんの数回吉田京子から「マコト」と呼ばれたことには、不快とまでは言わなくとも違和感を覚えたのだった。 「佐田」と呼ばれる自分と、「マコト」と呼ばれる自分には、何か決定的な人格の差でもあると言うのだろうか。 　
　瓶に残っていた少量のビールを飲みきるうちに、佐田はいつの間にか食卓に肘をついたまま、うたた寝をしてしまった。 　
　
　目を覚ますと、ベルと京子が出掛けてから二時間以上も経っていた。曇り空だった天気の影響もあって、薄い闇が近づいた外の景色を窓越しに見ながら、佐田は何だか無性に腹が立ってきた。三つの代償、三つの代
償、と、心の中で呟いてみた。小村たちの陰謀に加担することに関しては、もうどうでもいい、という気分になった。ただ、昼に小村と京子が交わしていた会話の口振りでは、京子も今回のいかさま博打の計画のあらましを知っているような気がしていた。買い物に出掛けていたという母親が帰って、台所の奥に進みながら、佐田に声を掛けた。 　
「あんた、御玉さんに出るんじゃ、白の締め込みを用意しなくちゃいけないね」 　
　そう言う母親の声は、どこか嬉々としている。 　
「いや、まだ完全に出ると決まった訳じゃあないし、仮に出ることになっても、今回は普段着のままで良いんだ。小村が言っていたじゃない、俺は秘密兵器だって。スパイの役を仰せ付かったんだよ。締め込みは要らないんだ」 　
　母親は、怪訝な顔で佐田を覗き込むように見つめると、大きく嘆息をつきながら言った。 　
「何を馬鹿なことを言ってるの。スパイだなんて」 　
　焦れたような非難がましい態度だった。佐田は、情けなくなった。
「ねえ、お袋。俺が考えたことじゃない。本当に、小村は俺に御玉さんを隠し持つ役割をやれって言っているんだ」 　
　弁解しても、母親の非難は収まらなかった。 　
「そんな馬鹿な話がある訳ないじゃないの。だいいち、締め込みもしないで御玉さんに触ったりしたらバチが当たるわよ」 　
　確かに、小村たちのいかさま博打は、きっと御玉さんの伝統とかいうものを汚すことになるのだろう。母親の腹立ちはもっともだ。　
「小村たちも、よほど考えがあってしていることらしいんだ。お袋は知らない？　あいつのグループ、五十人とか百人とかいう大人数なんだぜ。近所でそんな噂が出ていないの？」 　
「聞いたこともないわよ、そんな連」 　
　母親の不機嫌な雰囲気は、ベルを同行すると連絡した時から始まっていたが、さらに険悪さを増してしまった。佐田は内心、これも今回の代償の一つかと苦笑した。 　
　やがてベルが帰ってきたが、意外なことに、京子は家に入らず、車でそのまま帰宅したと言う。 　
＜夕食後に、彼女の家に呼ばれたわ。食事もどうかって誘われたけど、お母様に悪いからって、断ったの＞ 　ベルが、台所の奥の母親を気づかいながら、声を低くして言った。
＜え、それじゃ、僕らまた別々なの？＞ 　
＜キョーコが、マコトは夜には打ち合わせで、ミスター・コムラたちと飲むことになるって言ってたわ。そうなんでしょ？＞ 　
　ベルのスケジュールは、佐田の意志を無視したかたちで、すっかり京子にコントロールされていた。 　
　やがて、ベルの言葉通り、そして京子の予測通りに、小村から掛かってきた電話は、八時からメンバーの数人を加えて打ち合わせをしたい、佐田の外出は好ましくないから佐田家で行ないたい、という内容だった。佐田が母親にそのことを伝えると、「まったく、急にねえ」と、不満の声を上げながら、それでも心のどこかには、自分の息子が御玉さんで何か重要な役割を任されるという、ちょっとした晴れがましさに満足を覚えているようにも見えた。 　
　夕食が終わって間もなく、小村たち五人の男の来訪と、ベルを迎えに来た京子の来訪がほぼ同時刻に重なって、ざわついた慌ただしい空気の中で、ベルは出掛けて行った。 　
「後でまたお見送りはするから、安心していていいわよ」 　
　今度は歩いてきたと言う京子が、ベルが身支度をしている間、玄関の上り框の前で佐田に言った。 　
「悪いね」と言った後、佐田は付け加えるように「元気だった？」、と小さく尋ねてみた。 　
「元気なわけないでしょ、このおっ」 　
　昼間、小村にしたのと同じ、今度は佐田の腹に拳を突く格好をして、京子が笑いながら言った。 　
「ごめん」 　
　短い沈黙の後、すぐにベルが現れて、救われた気分になったのは自分だけではなかったはずだ、と佐田は思った。 　
　男たちを通した食卓のある部屋に、佐田は遅れて腰掛けた。小村の他に本間聡輔、そして昨夜いずれも栄寿司で見かけた三人の男がいた。小村から改めて紹介を受け、一人が石野、もう一人が岡本という男で、どうやら記憶の引き出しの中に入っていなくても許される、佐田の過去に接点をもたない男たちだった。もう一人
は、意外なことに昨夜訪れた栄寿司の主人で、大村という名前は、佐田には初耳だった。 　
　小村が陣中見舞いと称してスーパーニッカを抱えてきたが、石野と紹介された男から貰ったと母親に知らされた缶ビールを、佐田は開けた。「いただきます」と、二歳年下という石野に会釈しながら、佐田は、むしろ初対面のような関係の方がこんな時には気軽でいい、と考えていた。打ち合わせは始まった。 　
　母親はその間、台所の向こうの自分の部屋でＴＶを見ているらしく、戸は閉じられているのに、小村をはじめ五人の男たちは、文字通り額をつき合わせるように、声を押し殺して話す。こうなってくると、初対面に近い男が三人もいるこの六人による会合は、五十人とも百人とも言われる小村グループの、あたかも公式の謀略会議という様相が明らかで、佐田の心はさらに重くなってしまった。 　
　結局、翌日の御玉さんで、佐田はまず、遅くとも九時には栄寿司に客として入り、待機することになった。 「十時でいいだろう」と言う小村の案を遮って、「いや、遅くとも九時前には」と、深刻な表情で自説を強調したのは、最初佐田にとって気軽な存在と思われた石野だった。 　
「いよいよピンチだ」と、佐田は思った。昼の小村の話では、隠し玉としての自分の役割は十一時から一時までの、最長二時間程度のはずだった。このことだけで、すでに違約行為ではないか。しかし、待機開始時刻
は、謀略会議で正式に決まった。 　
　次いで議題に上がったのは、佐田が潜む路地の決定だった。ここに来るまでにすでに決まっていたのだろ
う、栄寿司の隣の路地ということが決定事項で、テーブルの上にあった折り込みチラシの裏に、佐田が潜むべき場所、栄寿司の裏口からの通じ方などを、見取り図にして書いて見せたのは、本間聡輔だった。 　
「テロリストたちの謀議なんていうのも、きっとこんな光景なのではないだろうか」 　
　佐田がそう考えたのは、本間聡輔の書いた見取り図の路地の幅や店舗内部の、実行犯となる佐田自身がどうでもいいと思うようなちょっとした歪曲を、他の出席者の誰もが許さない、馬鹿げた律儀さと緊張感が漂っていたからだった。イラストマップを依頼されたデザイナーが、クライアントの質の悪い担当者から次々に修正加筆を要求され、ついには教科書に出てくるような凡庸な説明図になってしまうことがある。そのことと今夜のことに違いはあるにせよ、佐田は無口な本間聡輔を気の毒にさえ思った。 　
　謀略会議はそのように、どうでもいいことを中心に、タバコの煙の中でかすむ男たちの引きつった視線と、実際の年齢以上に老けた感じの押し殺した濁声を充満させながら、延々と続いた。途中、何度となく、「分かった」と、佐田はあえてきっぱりと発声するのだが、そのことが謀議の終了を早めようという合図に受け取られないのは、つまらない仕事での打ち合わせと同じだった。 　
　十一時近くになって、吉田京子からの電話を受け取った母親が男たちに就寝の挨拶を済ませて再び部屋に入った頃、ようやくテロリストたちの間にも散会のムードが生まれた。吉田京子からの電話は、ベルが京子の家族たちとすっかり打ち解け、二時間ばかり談笑した後、二人で夜の町に散歩に出たが、もう少し一人で歩きたいというベルと別れて、たった今自宅に戻ったところだ、というものだった。
「ご心配なく。バイバイしたのは、お宅のすぐ近くだから」 　
　電話の向こうの吉田京子は、陽気に酔っ払っていた。 　
「ありがとう」と言って、佐田は受話器を置いた。 　
　その後、謀略会議は、小村の議事進行でもう一度明日の行動確認をし、万一佐田に不明なことがあれば、栄寿司の主人である大村に尋ねるよう、ということで収まった。そんなことなら、何も今夜集まって長々と会議する必要もなかったではないかと、内心憤りを覚えながら、佐田は黙って頷いていた。十一時を三十分ほどまわってから、テロリストたちはぞろぞろと帰っていった。 　
　佐田は、何だか虚脱した状態だった。それでも、タバコを吸ったり、小村が持参したウイスキーを飲みながら、ベルの帰りを待った。
　しかし、〇時になっても、ベルは帰ってこなかった。 　
　また三十分待ったが、ベルの帰宅を知らせる玄関の音は聞こえない。一時になって、佐田は電話帳で調べた吉田京子の家に恐る恐る電話を掛けてみた。田舎町のことだから、普段だったらほとんどの家庭が寝静まっている時間だが、御玉さんを前にしたこの時期は、どの家も当日の予行演習を兼ねて宵っ張りになっているはずで、辛うじて非常識と非難されずに済むだろうというのが佐田の考えだった。むしろ、かつての京子との関係が家族に知られていて、それを理由に冷淡で非難がましい応対をされるのではないかという不安の方が、佐田を滅入らせた。 　
「吉田です」 　
　低くくぐもった声で受話器を取ったのは、以前吉田京子からその存在を聞かされたことのある五歳違いの弟のようだった。 　
「すみません、こんな夜中に。京子さんを電話口までお願いしたいのですが」 　
　佐田が言い終わらないうちに、吉田家の受話器が無言で何かの上に無造作に置かれた音がした。それから一分近く、無音の状態が続いた。それは異様に長い空白状態で、佐田には、その空白が何か特別な意味を持つのではないか、とさえ感じられた。 　
「ごめんなさい、お待たせして」 　
　酒に酔って服を着たまま寝てしまっていたという京子は、やはり寝起きの生理を匂わせるような声だった。佐田は手短に事情を告げた。電話の向こうで、京子の息をのむ音が聞こえてきた。京子は、「どうしよう」と困惑を告げ、「やっぱり私が送り届けなかったのがいけなかったんだわ」などと言うばかりで、別れた後のベルに関する具体的な手掛かりなど得られるはずもないことを、この時初めて佐田は気づいた。 　
　その時、佐田は自分の背後に足音を忍ばせるように近づいてきた人の気配を感じた。電話に気を取られていた佐田が知らぬ間に、ベルが音も立てずに玄関の戸を開け、食卓のあるこの部屋に入ってきたのだった。 　
「××××××」 　
　蒼白の表情で立ち竦み、微かに震える声で呟いたベルの言葉は、しかし佐田には届かない。 　
＜何？＞ 　
　佐田は、ベルの姿とその表情をもう一度見つめ直すように、聞き返した。 　
＜アイウォズロスト＞