第二章　≪Freezing Friday 　立ち竦む金曜日≫ 　
　その２　

　結局、ベルの同席のもと、佐田はいかさま博打の隠し玉作戦を聞くことになってしまった。予想外のベルの反応もあって、小村の策略にまんまと嵌ってしまった訳だが、佐田の内部にも、好奇心を満たすことができるという、後ろめたい満足もあった。 　
　小村たちの立てた作戦というのは、およそ次のようなものだ。 　
　まず、土曜の夕方六時、貴舟神社の境内で、神主から前年のゴールを決めた男、つまり年男に御玉さんが手渡され、同時に境内につめかけた群衆によって御神水が振り撒かれる。毎年恒例の御玉さん始めの風景は、当然のことながら、今年も同様に行なわれる。高校生の若者や、御玉さん目当てに遠方から呼ばれた親戚関係の男たちが群れの中心になっていられる、極めて安全な時間帯だ。およそ深夜の〇時近くまでその状態が続く、小村たちの作戦行動に関わりのない時間帯といえる。なぜなら、この時間帯までの御玉さんの流れは、せいぜい貴舟神社のある神明町から山側には城内、谷ノ口あたりまで、海側には中央町、栄町の入口あたりまでと、どちらにしても、神社を起点に百メートル程度しか移動していないはずなのだ。　山側、海側のゴールとなる石畑の三叉路、港の入り江の石塚までは、それぞれ四、五百メートルの距離がある。男たちの肉弾戦が本格化するのは、御玉さんが二度、三度と、安全圏内で山側、海側を行き来した後の〇時過ぎ、というのが相場なのだ。 　
　小村たちが勝負に出るのは、この安全な時間帯と思われている、限りなく〇時に近いタイミングで、最後に御玉さんが海側に押し出されてきた時間帯だ。締め込み姿の男たちの一団が、海側の中央町から栄町に入る
と、そこだけやや道幅が狭く、いくつものさらに細い路地が、家々の裏庭とそこに流れる小川に辿り着けるよう、ごくごく私的な通用路として並んでいる一画がある。この界隈では、いきおい千名にものぼる裸の一団が長い行列のような形態にならざるを得ない。つまり、御玉さん争奪をめざす肉塊の圧力が縦に長く伸びるために、最も希薄になる地帯でもある。ここで、それまで流れの中心からなるべく逸れ、目立たぬように潜んでいた五十人とも百人ともいう小村グループが御玉さんを掠め取り、路地裏に潜伏している佐田にこっそりと渡
す。佐田は締め込み姿になる必要もなく、むしろ一般の観客の中に紛れ、渡された御玉さんを隠し持って、再び路地裏の奥に潜伏する。小村グループは、その後も御玉さんが肉塊の中心に存在するかのように偽装して、そのまま揉み合いを続け、意図的に今度は敵側の谷ノ口方面に流れを運んでいく。裸の男たちの一団が完全に視界から消えたところで、小村のグループの誰かが路地裏に戻り、佐田が手渡すであろう御玉さんを持って、港の入り江の石塚に駆け込むタイミングを図る、というものだった。 　
　佐田が路地裏に待機する時間は、十一時過ぎたあたりから、仲間が戻ってくるであろう十二時半か一時ぐらいまでの二時間程度で良く、うまく手筈が整えば、昨夜の栄寿司を引き渡しの場所にできるかも知れない、ということだった。 　
＜アンフェアだわ＞と、笑いながらベルが言った。 　
　それは、非難というよりも、狡猾なプランへの興味という響きをもって佐田に伝わった。小村から話を聞きながら、佐田はベルにせがまれるまでもなく要所を英語で通訳していた。 　
「ズルイ」 　
　今度はベルは、小村の丁度胸の辺りを指差しながら、日本語で言った。小村は、悪戯が教師にバレて照れ笑いする生徒のように、頭を掻きながら、それでもまんざらではないといった面持ちで、何度も何度も頷いた。 「しかし、ありもしない御玉さんを、そこにあるように偽装することが、そんなに簡単にできるのか？」 　
　佐田は、小村に尋ねた。 　
「どう思う？」 　
　小村はいよいよ増長する態度で、思わせ振りに言った。佐田は、また不快になった。 　
「お前、高校時代に御玉さんに参加して、実際にその目で御玉さんを見たり、触ったことがあったか？」 　
　小村の言うことはまったくその通りで、十五年以上も前に御玉さんに参加した時、佐田の視覚にも、触角にも、御玉さんは決して入ることはなかったし、その当時、佐田にとって御玉さんに参加することの意味は、酒臭い大人の男たちの群れの中に入って、ただただ肉体を擦り合わせ、体臭を同化させることだけだった気がしていた。 そこで佐田がしたのは、決して御玉さんを手にする目的の行為ではなく、御玉さんがあると思われる肉塊の中心への無垢な拝礼のようなものだった。祭りというものが持っている共同幻想、Ｍ市の海なり、山なりの「衆」というものへの同化の幻想だった。だから、佐田本人は、御玉さんという祭りに参加していながら、御玉さんそのものである木塊には、何の価値観さえも抱いていなかったのかも知れない。御玉さんという祭りは、男たちの肉塊に象徴されるもので、 本来祭りの象徴物だった木塊をイメージすることはまるでなかったのだった。 　
「この俺がだな、四、五年ほど前に、ほんの一瞬だけ触ったことがある。生まれて初めてだった。この俺でさえ、だぜ」 　
　自己陶酔するように、小村は同じ言葉を繰り返した。 　
「巧いこと出してしまえば、ワッショイワッショイは続くさ。絶対にな」 　
「しかし、群れから御玉さんを出せなかったら、どうする？」 　
「そうなりゃ、仕方ない。諦めるさ。だがな、佐田。明日は絶対に出せるんだ」 　
　小村の自信の背景には、やはりグループを構成する圧倒的な人数があることは間違いなかった。仮に、グループが百人になったとすると、ほぼ千人で揉み合う御玉さん参加者の十分の一が、一つの連の役割を果すことになる。もっと正確に言えば、海ん衆の五分の一が結束する訳だ。 　
「お前のグループについて気になるのは････。お前の話じゃ、これまで連が町を跨がって結成されたことはないんじゃないのか？　聞いただけでも栄町、東新町、そして俺が田町だ。昨夜の男たちの中には中央町、番町のヤツもいたはずだ。お前たちグループのでき方には、やっぱり俺はなんだか胡散臭さを感じるぜ」 　
　佐田は、グループの人数の多さに驚きを感じた時点から抱いていた疑問と、小村の態度に明らかに見える奇妙な自信のようなものへの不信を、そのまま口にした。 　
「ハハ、お前っていうヤツは、本当に疑り深いなあ。御玉さん好きの有志の集まりだって。問題なんかないんだ」 　
　言いながら、小村は今度はベルに顔を向けた。 　
「ね、ベルさん。マコトイズベリークレバー。でもね、トゥーマッチクレバーは、ダメだよね」 　
　 一通り話が終わって、予想通り、佐田の立場は後戻りできないものになっていた。ベルも、佐田の不本意を薄々感じながら、最初から参加を促す側に回っていた。それまで彼女が、祭りに佐田が参加することなど想像していなかったのと、実際に佐田に参加への要請が起こった時点からでは、話はまったく別物になった。 　さらに、佐田とベルには、厄介な問題が持ち上がった。午後、佐田はベルを連れて、ベルが見たいと言っていた石畑の三叉路に案内するつもりだったが、ベルはともかく佐田については、小村から外出の自重を求める要請が出たのだった。 　
「頼むから、明日の夕方までは外を出歩かないでくれ。ベルさんの案内は誰か他の人間にしてもらえるようにするから、な」 　
　小村の言い分は、佐田に隠し玉として白羽の矢を立てたのも、佐田がＭ市から遠のいて長く、顔を覚えられている可能性が少ないこと、さらに、昨夜の帰省以来、多くの人間にその所在を知られていないこと、それこそがいかさま博打の成否の鍵を握っているのだ、というものだった。 　
「そうだ、京子を呼ぼう。な、佐田。吉田京子だ。彼女、まだ独身でいるんだぜ。お前だって会いたいだろ
う」 　
　吉田京子は、佐田の高校時代の同級生で、彼女もまた共に大学進学のために上京し、佐田の浪人時代も含
め、数年間の恋愛関係を続けた相手だった。そのことを、もちろん小村は知っている。 　
「やめろよ、吉田さんだって迷惑だろう」 　
　吉田京子の名前を口にすることに、佐田は軽い躊躇を感じていた。しかし、佐田が制止するのを受け流しながら、遠慮なく小村は電話口まで行き、京子が大学卒業後に帰って家業を手伝っているという実家の不動産屋に連絡を取った。 　
「京子ちゃん、ヒマ？」 　
　小村が吉田京子と電話で交わしている会話は、明らかに高校や大学時代のそれではなく、佐田自身はＭ市の誰とも交わしたことのない、同じ町に住む住民同士の馴れ合いにみちみちた粘着性を感じさせるものだった。小村の電話の会話に聞き耳を立てながら、佐田はベルを見た。 　
＜小村さん、誰に電話しているの？＞ 　
　ベルが怪訝そうに尋ねた。 　
＜ミス・キョーコ・ヨシダ。僕と小村共通の高校時代の同級生だ。小村が君に引きあわせようとしている。今日の午後の、君の案内役としてね。祭りに参加するための一つめの代償だ＞ 　
＜どういうこと？代償なんて、おかしいわ＞ 　
＜僕が祭りに参加する。そのことで、僕は君と今日の午後つきあえない。代償と言えないかい？＞ 　
＜その女性が、犠牲になるのなら分かるし、あなたの時間を犠牲にするって言うんでも、分かる気がするわ。でもね････＞ 　
＜確かに、ミス・キョーコ・ヨシダは犠牲者だね。君だって、犠牲者さ。案内役が突然替るんだから＞ 　
　佐田は、ベルが小村の進言に同意したために、結果として佐田が御玉さんの何か重要な役割らしき栄誉を担うことになった代償として、時間的、肉体的な束縛が生まれたのだ、という意味で言ったのだった。そしてまた、隠し玉作戦の実行時にも、恐らくその束縛があることは疑う余地さえもない。 　
＜一つめの代償ってことは、二つめ、三つめがあるということなの？＞ 　
＜分からない＞ 　
　本当のことを言えば、佐田にとって御玉さんに参加する一つめの代償は、もう後戻りできなくなったと感じた瞬間に心に芽生えた後悔の念そのものだった。そして、二つめ、三つめの代償も、すでに心に重くのし掛かりはじめていた。明らかになってしまったその一つは、ベルに京子の存在をどう説明するかという煩わしさであり、もう一方は、京子にベルをどのように紹介するかという面倒臭さだった。さらにまた、第三者から見れば曖昧な関係でしかない自分とベルとの問題について、再び深刻に考えざるを得なくなる予感が、佐田の気　
分を否応なく重くした。考えてみれば、今回の帰省で佐田はすでに一つめの代償を払わされていた。奇妙なことに、それまでほとんど自分自身でさえ無神経でいられたベルとの関係が、昨夜のＭ駅の一件以来、何かぎくしゃくし始めている。 　
「ベルとは、俺はセックスしていない」 　
　急に、そのこと自体が、奇妙に思えてきた。 　
「吉田京子とは、俺はセックスにまみれた」 　
　少なくとも上京した最初の半年間、恋愛という関係の表皮を暴いてみれば、佐田は吉田京子のからだの虜だったし、今も彼女の皮膚の感触が指や腹に残ってさえいた。もう十三、四年、佐田は吉田京子と会っていなかった。 　
「おい、佐田、来るってさ。懐かしいだろう。お前、ベルさんにちゃんと言わなきゃ駄目だぞ、昔のお前の彼女だってな、ハハハ」 　
　結局、小村はそのまま居座り続け、佐田の母親が用意した昼食をビールとともに流し込みながら、吉田京子が来るはずの一時半まで時間を過ごした。その間、他愛のない世間話をしながら、ビールで饒舌になった小村が何度かベルに話を向け、ベルもそれに辻褄を合わせるように、「イエス」とか「サウンズグッド」とかを繰り返していた。佐田は、小村たちの会話に無理に入っていこうとはせず、時々ベルと視線を合わせるだけで、ビールを飲みながら黙って聞いていた。母親は、第三者的立場の小村が無遠慮に試みる無手勝流の英語が面白くてたまらない、といった風で、昨夜のベルとの対面以来初めて無防備になりきれている様子だ。 　
　白のブラウスにグレーのカーディガン、ジーンズのパンツ姿という軽装で現れた吉田京子は、玄関先でしばらく母親と会話を弾ませてから、ようやく食卓のある部屋に入ってきた。 　
「幸ちゃん、こっちだって忙しいのよ」 　
　日頃顔を合わせている気安さを見せながら、京子は、佐田とベルに軽く会釈をしただけで、すっと小村の方に近づいて行くと、立ち上がった小村の出っ張った腹に拳を突き立てる仕草をして見せた。　
「ね、ね、京子ちゃん、これが噂のベルさん。な、綺麗だろう？　佐田のヤツ、ズルくってね、自分の彼女だって白状しないんだぜ。おまけに京子ちゃんのことも」 　
　小村の無遠慮を制して、京子がベルに向き合って話し掛けた。 　
「はじめまして。吉田京子です」 　
　京子に合わせて、ベルもペコリとお辞儀をした。 　
「ベルデス」 　
　京子がベルに向かって手を差し出すと、ベルがそれを柔らかく掴み、二つの白い掌が交じりあった。 　
＜お会いできて嬉しいわ。マコトの高校時代の同級生だったんですってね？＞
　と、ベルは自然な雰囲気で尋ねた。 　
＜ええ、もう長い付き合いなの。彼からは聞いていない？＞ 　
　英語でさらりと答えながら、京子は佐田の方に初めて視線を向けた。佐田にとって、それは懐かしい視線だった。懐かしく、苦く、恐ろしい視線だった。 　
＜キヨーコ。とても響きの良い名前ね＞ 　
　ベルが言った。 　
＜そう？　でも、キヨーコじゃなく、キョーコ。京子の京は、京都の京の漢字をあてるの。どうしてかしら、英語圏の人はみんなキョーコじゃなく、キヨーコになってしまうのね。キヨーコじゃなくて、キョーコ＞ 　
＜キョーコ？＞ 　
＜そう。キョーコ。私自身も気に入っている名前なの＞ 　
　二人の会話を聞きながら、目の前で京子の名前が何度も何度も繰り返されるのに、佐田は少し不思議な気がする。そして、京子の澱みない英語にも驚かされていた。 　
「吉田さん、随分英語を喋るんだね」 　
　佐田に続けて、小村も言った。 　
「すげえな、京子ちゃん。そんなに喋れるんだ」 　
　佐田の母親も、同調の意志を「ねー」という感嘆の音にして、それを五秒ほども伸ばして驚いた。 　
「いやあねぇ、大学は英文科だし、これでも短いけれどアメリカに留学させてもらった経験だってあるんだから、驚くほどじゃないわよ。もう、恥ずかしくってベルさんと話せなくなっちゃうじゃないのよ」
「よし、逸材発見！　な、京子ちゃんちは金持ちだし、おまけに独身だから、海外旅行もしょっちゅうだ。喋れると思っていたんだ」 　
　小村は京子に、午後のベルの案内役をお仕着せがましく依頼すると、自分はこれからある会合に行かなくちゃならない、と告げた。　
「で、どうするのよ、佐田君は」 　
　京子が、佐田にではなく小村に尋ねた。小村は、急に真顔になり、声を低くして言った。 　
「佐田に、御玉さんのアレをやってもらうことにしたんだ」 　
「へえ〜」という顔をして、京子は小村、そして佐田の順で顔を覗き込んだ。 　
　夕方には連絡を入れること、くれぐれも外出しないこと、京子とのかつての関係をベルに話せ、という何度目かのしつこいアドバイスを残して、小村はようやく帰って行った。 　
　京子がこれから自宅に帰って車を用意し、ベルに町を案内する、という提案をした。車なら見つかる恐れもないのだからと、佐田にも同行を促したが、佐田は小村との約束を口実にやんわりと断った。 京子が、自宅へ戻って行った。 　
＜彼女は、英語が話せるからという問題じゃなくて、とても話しやすい女性ね。好きだわ＞ 　
　ベルが言った。 　
＜ああ。彼女はいい人だよ＞ 　
　佐田は、他に言葉が見つからなかった。そして、三つの代償のお蔭で、頭の中が混乱していた。 　
＜それにしても、申し訳ない。折角一緒に来たのに、てんで一緒に行動できないなんて＞