７．おうっ

　　僕は電車に揺られていた。昨日までの継続する興奮が嘘のように、僕の心にはこれっぽっちの波立ちもなく、こん なに落ち着いた気分になったのはいったいいつ以来だろうと思えるほどだった。もっとワクワクとした、胸の躍動が聞こえてきても良さそうだった。むしろ、あまりにも平然としている自分の心が、僕には驚きだった。
　電車は、三つばかりのトンネルを抜け、夏の終わりを告げているような微かに褐色に煙 った緑の山々の間をぬって進んで行く。僕は昨日まで少年であって、たった今の瞬間、少年として彷徨うことを止めようとして いるのかも知れなかった。僕には、決然とした意志があった。
　Ｓ駅のほんの隣駅なのに初めて降り立った閑散とした駅舎で、佐藤まゆみの生きている 町の地図看板を探した。すぐに、佐藤まゆみの住所と地図とが一致した。 あまりに急な訪問は、佐藤家に失礼なのかも知れないと気がついて、公衆電話を見つけた僕はメモした電話番号のダイヤルを回した。
　僕の声を聞いて「あっ」と言ったのは、佐藤まゆみ本人だった。ついこの間までと違って、佐藤まゆみの方が押し黙ってしまった。僕は今、佐藤まゆみの生きているこの町の駅舎にいて、生徒名簿に記されていた住所と 地図看板に示された佐藤まゆみの生きている家に向かって行こうと思う、と告げた。
「待って、大町君。家まで、地図に書いてあるほど単純じゃないんだよ。ねえねえ、私、 駅まで迎えに行くからさ、ほんの五分で行けるからさ、そこで待っていて。ね」
　電話が切れた後、僕はさっさと歩きだしていた。もう、僕を止められる力なんぞどこにもないのだ、と思った。佐藤まゆみが言うほんの五分は、永遠に近く長く続く時間なのだと思った。五十メートルほどで途切れてしまう商店街と、商店街を右に折れて線路伝いに続く地図 通りの道を歩きながら、佐藤まゆみの顔を見た瞬間に何を言おうかと考えた。 「好きだ」という言葉は、地上最悪の凡庸な表現の気がした。「愛してる」なんて言葉は、まるで愛していないから言える便宜上の、虚ろな言葉のよう な気がした。
　歩を進めれば進めるほど、言うべき言葉の何もないことに、僕は気づいた。あの棒っきれみたいになった佐藤まゆみに、あの涙と鼻水にまみれた抱擁を交した佐藤 まゆみに、キッスした佐藤まゆみに、僕は何を言おう。言うべき言葉さえもないという事実が、僕をうろたえさせた。 踵を返して、もう一度駅舎で待っていたことにしようか、と思った。言うべき言葉がないのなら、黙って佐藤まゆみを抱擁したっていいじゃないか、と思っ た。しかし、きっと僕にそれができないのは明らかだった。宮浦日向子が大好きになったほどには、宮浦日向子のように開けっ広げな気分になるこ とは難しかった。
　突然、一歩進むことが、まるで絶望に近づいていくことのように感じられた　頭の中に地図看板の絵が再現され、少し先の鉄道の踏切が右手に見える交差点で、僕に 左に曲がれと命令した。ぽつんぽつんと建っている民家の向こう側には、四角い地面の公園があるはずだった。少し歩くと、金網に仕切られた空き地のような場所が右手に見え、それが公園なのだと 分かった。
　金網越しに公園を見ると、その向こう側を仕切っている金網のそのまた向こうの小道を 歩いて来る佐藤まゆみがいた。佐藤まゆみは、きっと僕と同じように、大町カツミにあったら、最初に何を言おうと考 えているのに違いなかった。何かを思いつめたように、佐藤まゆみ本人にはちっとも似合わない格好で、足早に、し かし俯き加減で、佐藤まゆみは歩いて来るのだった。佐藤まゆみは、まったく僕には気がついていなかった。
「佐藤まゆみ〜っ」
　僕はこれまで一度も口にしたことのなかったフルネームで、佐藤まゆみに向かって大声 で叫んだ。二重の金網越しだった佐藤まゆみの姿が、突然、すかっとモヤが晴れたように、交差点 にくっきりと浮かび上がった。一瞬、僕の目は眩んだ。
「おうっ」
　佐藤まゆみが小さく右腕を上げながら、飛び跳ねた。もう一度、僕は叫んだ。
「佐藤まゆみ、キミのヌードを描きに来てやったぞう」
　飛び跳ねた瞬間にニカッという表情を見せたのに、一直線に僕に近づく佐藤まゆみの俯き加減の表情には、大きな何の変化も起こらなかった。佐藤まゆみは、僕が手を伸ばせば丸ごと抱き締められる位置まで近づいた。気恥ずかしそうにうっすらと頬に微笑みを湛え、直立する僕の目を見上げながら、佐藤 まゆみは、あの懐かしい、悪戯っけたっぷりの表情で呟いた。
「ばあか」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜了＞