5．くらみ

　黒俣に出掛けてみよう。 あの宮浦日向子が生まれ育った、Ｓ市の北端の山間の地域に、自転車を漕いで出掛けて みよう。
　ベニヤのキャンバスは、日を追うごとに巨大な白壁のように僕の前に立ちはだかる存在 のように思われたし、安田の追悼のための美術室の集まり以来、佐藤まゆみも学校には現 れない。 八月も半ばが過ぎたある日の午後、ジーンズに半袖シャツの軽装で、小ぶりのスケッチ ブックを自転車の前篭に入れると、僕は最初のペダルを漕ぎだした。 午前中は、この一週間同じように続く、膨大な太陽の光量と、庭の木々や近くの林から 叩き付けるように聞こえてくる蝉の声が、僕にすべての行為を放棄させるほどの圧倒的な 夏の力が支配する天候だった。 昼近くになって風が出だし、西の空に薄墨色の雲が目立ち始めると、太陽は微かに力を 失って、差し込む光りさえ和らいだようだった。 昼のテレビで、日本に向かって北上中の台風は、やがて明後日あたりに僕の住んでいる 地方にも影響を及ぼすだろうというニュースをやっていた。 遠出をするんなら、今日しかないと思った。
　Ｓ市の市街地から真っ直ぐに北に伸びた県道を進んでいけば、黒俣や倉実や美人ケ谷に 到着できるはずだった。 家を出て、すぐに小さな集落を抜けると、しばらくは左右に田園風景だけが広がってい た。生まれてから今までずっと嗅いでいた匂いなのに、少し黄ばみ始めた緑の稲穂は、鼻 先をつんと刺激しながら懐かしい香りを発散している。 これまで、好きとも嫌いとも感じたことのないその香りを、僕はきっとものすごく好き なんだろう。
　ほんの五メートルほどの小さな川に架かった橋を通り過ぎる時、ああこれが倉実川なの だろうと思った。北から真っ直ぐ南に向かう倉実川を越すために、橋は少しだけ斜めにか しいでいて、その橋を過ぎると再び、県道は真っ直ぐな定規で引かれた線のように北に向 かっていた。通り過ぎながら、ゴッホの跳ね橋の絵を思い出した。 こんなに近い場所なのに、僕がさっきの橋を越える地点までやって来たのは、小学生の 時にバスに揺られて出掛けた、母親の同窓会以来だった。
　同窓会と言っても、その時集まったのは母親の女学校時代に親しかった数人だけで、そ れぞれが一人か二人の子供連れで、小さな旅館に僕らは一泊したのだった。旅館には確か 倉実温泉という名前があって、旅館の脇を倉実川が流れ、ちょうど裏手のあたりに滝壺の ようになって流れの堰き止められた場所があり、僕はそこであわや溺れそうになった経験 がある。
「深い場所があるから、気をつけて」
　母親か旅館の人に、その滝壺に入る直前に念入りな注意をされていたはずだった。 数人の子供たちが、滝壺の周りの岩にへばりつくようにして水遊びをしていた。 急に対岸まで行きたくなった僕は、ほんの目と鼻の先の距離しかない対岸に向かって泳 ぎだした。 途中で、どのぐらい深いんだろうと確かめたい気持ちが働いたのだろう。僕は泳ぎの手 を緩め、足先を少しばかり下に潜らせてみた。深いと分かっていたはずの滝壺の中央は、 予想通りに深く、予想通りのはずだった僕は、予定外にうろたえた。 一度垂直方向に沈み始めた足をもう一度立て直すほどには、僕の泳ぎの能力は備わって いなかった。 後悔する気持ちと、慌てふためく気持ちがゴチャ混ぜになりながら、僕は溺れた。子供 たちの中の、誰か年長の女のコが、僕の腕を引っ張って助け上げてくれたのだった。 そうだ、あれは確か倉実温泉だったはずだ。
　右、左、右、左と漕ぎだすペダルの単純なリズムと、それに合わせて否応なく繰り返す 僕自身の荒い呼吸が、図形のように真っ直ぐ北を指すアスファルト道路の均質な路面に、 周囲の景色の少しばかりの変化をもたらす唯一の手段だった。 橋を渡る前に通り過ぎた集落以来、ぽつりぽつりと建っている民家はほとんど農家で、 すでに地名さえも知らない場所だった。Ｓ市の白地図を小さなメモに書き写してくれば良 かったと、僕はすでに後悔を始めた。 黒俣までたどり着いたとして、そこが黒俣だとどうして分かるのだろう。
　それまで左右にずっと開けていた平坦な農地の背後に、緑がかった黒い木々を盛りつけ た小さな山々が近づいてきた。その山の連なりが、僕が進んでいる県道の遥か向こうの方 で合流しているのが分かった。きっとあの現国の老教師が書いた人の字が、その山と木々 の連なりなのだった。そして、合流地点が人の字の付け根なのだった。
　やがて、漕いでいるペダルが徐々に重くなり、見た目には少しも気づかなかったほどの 延々と続く坂道を、僕は上っているのだった。 山間の地域では、山と山との間にできた細長い地形を谷と言うのであり、このまま真っ 直ぐに進んで行けば、黒俣はおろか、美人ケ谷まで辿り着くことができるはずだ、と考え た自分の思考回路が、なんだか例の老教師に影響されているようで、噴き出す汗を手の甲 で拭いながら、僕は思わず笑ってしまった。 もちろん、Ｓ市の地図は見たことがあるし、頭の中に描いていた地図も、たった今僕が 確かめたい地名へと導いてくれるはずだ。アル中の老教師が僕を白日夢に誘い込んだ「想 像の力」を試すために、僕は向かっているのだった。
　目の前で徐々に変わっていく地形と その地形によって命名された地名とは、なんて想像力を掻き立てることだろう。 僕は美人ケ谷の方向に向かって、黒俣をめざしているのだった。
　すでに水田地帯は終わり、同じように平坦な土地が広がっていても、周囲には畑ばかり が目につくようになっていた。 二百メートルほど先に、十五軒ばかりの家並みの集落が見えている。 あれが、黒俣だろうか。あれが、「クロマタのオンナ」の宮浦日向子の住む集落なのだ ろうか。 僕はついに、自転車を下りた。前に進もうと思っても、ペダルは何かの重りをつけたよ うに、自動的に強力なブレーキがかかるように、漕ぎだした時の倍にも三倍にも重くなっ ていた。太腿の筋肉の疲労などではなかった。小さな勾配の坂道、目に見えないほどの坂 道が、僕の前に予想外の大きな障壁となっていった。 集落まで、自転車を押して行った。 電信柱を見ると、石畑という地名が表示されていた。
　石畑は、僕にとって意外な地名だった。頭の中の地図には入っていなかった地名だ。し かも、もっと意外だったのは、幼い頃からこれまで何回か母親の会話の中に登場した「い しばたけのおばさん」という言葉を思い出したことだった。 物心がついてから、僕自身は「いしばたけのおばさん」に会った記憶はないが、場所も 顔も知らない「いしばたけのおばさん」という親戚関係の人物が、今もいるかも知れない 地名なのだった。
「黒俣は、どこですか」
　よっぽど、僕は何軒か並んでいる家の一軒に飛び込んで、尋ねてみようかと思った。 しかし、そんなことをしたら、今日の僕の行為のすべてが無意味になってしまう気がし た。
　幸運にも、集落のまた二、三百メートル先に、別の集落が見えていた。 もう、左右の山の稜線がつなぎあってしまう最終地点のように見え、その先には、道も 谷も続いていない地形のように見えた。
　ポツリ、と雨の大きな滴が、前屈みの姿勢で自転車を押しながら歩いて行く僕の背中を 打った。 見上げると、家を出た時の雲や空と少しも変わりがなかった。 別の雨粒が、灰色の路面に勢いよく落下し、割れて飛び散った。間を置かずに、次々と 道路の上に雨が作る斑模様ができた。 それから先は、あっと言う間だった。 最初は、山の方からシャー、という音が聞こえた。すぐにバシャバシャというアスファ ルトを叩きつける音に変わった。
　気がつくと、僕は小さな集落と集落の間の真ん中あたりにやって来ていて、身を隠す場 所はどこにも見当たらなかった。 自転車に飛び乗れば、坂道をさっきの集落まで一息で駆け降りることができるに違いな かった。 ここまで来たんだからという思いが、雨にズブ濡れになりながらも、僕を前進させた。 十メートル先の景色が見えなくなるほどの雨になった。天気予報じゃ、今日はまだ大丈 夫だったんじゃなかったのか？ 　新聞の予報欄にも、こんな雨の予想は出ていなかったじゃないか。 僕は、現代科学の力とやらを呪いながら、それでも、こんな雨に濡れたのはいつ以来だ ろうと、懐かしむ気持ちもあった。 濡れてしまったものはしょうがないじゃないか。ちょっとだけ冷静になると、ふと山間 の天気が変わりやすいものだということを思いだした。 どういう訳か、頭に叩きつけられて洪水のようになった雨は、そのほとんどが口元に流 れて来るのだった。 背中に降った雨は、僕の尻を伝い、すでにパンツまでぐしょ濡れになっていた。 まるで雨中の大運動会が、たった今、行なわれている感じだった。そしてすぐに、一人 っきりの大運動会なんてありっこないよ、と自分に言い聞かせながら、また笑ってしまっ た。僕は、強烈な雨と言いようのない幸福感に浸っていた。
　どのぐらいの時間、大雨は降り続いたのだろう。雨は、空のスイッチが何者かによって 切られたように、突然止んでいた。 目の前に、最後の集落があった。
　自転車を押し進めて行くと、電柱に表示があった。「黒俣」と言う表示だった。 そこが、「クロマタのオンナ」が確実に住んでいる集落のはずだった。 左右合わせて十軒ほどの家並みがあって、その背後の山の中腹にも、何軒かの家のトタ ンの庇が見えた。
　そこまで来て、突然、自分が何をしにやって来たのか、不思議に思った。 遠出の目的は、宮浦日向子に会うことではなかった。会えたら会えたで、それはことの ついでだった。 また、黒俣までやって来て、「黒俣」の表示を電柱に見つけたのだから、目的は達成さ れた気もした。 人という字の付け根までやって来た実感はあった。まさにここが、左右の山が人の形に 振り分けられる根元で、女性の躯を線描すれば、ここからが足の始まりで、胴体の終わり と言うべき逆Ｙの字の場所のはずだった。僕は、女性の腹を這って、ついに鼠蹊部にまで たどり着いたのだった。 Ｙの字の分岐点にある黒俣の意味は、性器に生える毛のことで、性毛の生えた股のこと だった。この付近に、どこか鬱蒼とした叢のような場所を見つけることができたとしたら 、僕はどんな感想を抱くだろうか。 考えているうちに、再び声を上げて笑いだしてしまった。 この遠出は、最初から滑稽な意味を持っていて、確かに僕は、単純にイメージの中に描 いた女性の性毛を確かめにやって来たのだった。 きっと、かつてこの地を治めていた領主が、山や川といった地形を描き込みながら、人 間の躯のような地勢を見つけ、好色な思いを張り巡らせて命名した地名なのだろう。実際 に、息を切らせながら上って来た黒俣の地には、残念ながら女性の性毛をイメージさせる 何ものも存在しなかった。
「先生、黒俣まで行ってきました。地名と地勢は分かりましたが、オンナのカラダはどこ にもイメージできませんでした」
　夏休みが終わったら、最初の現国の授業で、僕は老教師に大声で叫んでやろうか、と想 像した。また、笑ってしまった。
　少し行くと、五十メートルほど先から県道は細くなり、蛇行しているのが見えた。 県道の両脇の家の敷地でない場所には、いつ伐採されたとも知れない古い朽ち木が無造 作に倒れ、その朽ちた樹の表面にも、その周囲にも、蔦のような植物が群生している。も ちろん、それが黒俣を象徴する叢であるはずはないのだけれど、なぜだか僕には別の感慨 があった。死に絶えた樹と、それに群がって自生する植物のたくましさに、僕はしばし見 入っていた。 幼い頃にバスに揺られてやって来た倉実温泉は、きっとこのすぐ近くなのだろう。 僕は、小さな旅の終わりに気がついた。
　雨に濡れ、体温を奪われていた僕の躯に、急に寒気が走った。 あたりに夕暮れが迫っていた。 南の空を見ると、青い空が雲間からのぞき、まだ真昼のような明るさを残していた。
「あれ、大町君？　大町君じゃないの」
　黒俣の集落のいちばん奥の家の窓から、抑揚は違ってもどこかで聞き覚えのある声が響 いた。
「ええ？　やっぱりい？」
　抑揚が違うのは当然だった。こんなに開けっ広げな感じの声は、想像すらしていなかっ た。 窓を閉め、玄関から駆けだすように、宮浦日向子が僕の目の前に現れた。
「何、なあに」
　こんな場所に僕がいるからなのか、ズブ濡れになった僕の姿が滑稽なのか、宮浦日向子 は今にも笑い転げそうな様子で、つま先から頭のてっぺんまで、僕のことをしげしげと眺 めた。
「どうしたのお！」
「いや、自転車の遠乗りだよ」
　僕のごまかしは、宮浦日向子には全然通じていない様子だった。 突然、宮浦日向子があっと声を上げ、それから「現国の？」とだけ言って、僕を下から 上にのぞき見た。キャハハハと長い笑い声が、間近に迫った森にこだました。
「それにしても、身体大丈夫？　まだ大事にしなくちゃいけないんでしょ？　家に来て。拭か なくちゃ、風邪ひいちゃうよ」
　宮浦日向子は、直接僕を引っ張るというより、空いている自転車の右ハンドルを掴むと 、ぐいぐいと彼女の家に進んで行った。 玄関の引き戸をガラガラと勢いよく開けると、廊下の奥に走って行く宮浦日向子の足音 が、玄関の手前で立っている僕の耳にも聞こえた。 僕は、玄関脇に自転車を停め、宮浦日向子の持ってきてくれるタオルを待った。待って いるうちに、さらに寒気が背筋を走った。唇が震えだしていた。
「これ、使って」
「ありがとう」
　ぬっと宮浦日向子の腕が目の前に突き出され、ピンクと白の二本のタオルが差し出され た。 軒先の、さっきの雨でも濡れなかった白いコンクリートの上に、僕のジーンズの裾や 髪から落ちる水滴が、あっと言う間に黒く大きな模様を滲ませてしまった。 玄関脇の縁側のガラス戸が開く音がして、宮浦日向子の母親らしい紺色の作業着姿の中 年女性が顔を出した。
「そりゃ、だめだわね。日向子、裏から風呂場に上がってもらいなさい。着ている物全部 脱いで、何かに着替えなくっちゃ、肺炎になっちゃうわよ」
「この人、もう肺炎やっちゃった人だよ。結核もやって、同級生なのに二つ年上の大町君 って人なの」
「まあ」
　母親が驚いたのは、すでに僕の様子が少しばかり怪しくなってきていたせいがあるかも 知れない。 保護者のような態度になった宮浦日向子の思いのほか強い腕力で片腕を掴まれた僕は、 宮浦家の勝手口の脇にある風呂場の入口に連行された。 家の中から風呂場に回ってきた母親が、何枚かのバスタオルを手に抱え、今何か着替え を探すからと言い残して、別の部屋に行ってしまった。
「大町君、もう素っ裸ね。素っ裸になって、拭きまくらなくちゃだめよ」
　言い終わらないうちに、勝手口から家に上がった宮浦日向子は、奥の部屋にドタドタと 走って行き、「私のしか、だめでしょ？」などと大声で母親に言っている。 僕は、すでに上がり込んでいた風呂場で、濡れてまとわりつく衣類のすべてを、苦労し ながら脱ぎ終え、ドアを閉めた。 乾いたタオルを擦りつけるまでもなく、裸になった瞬間から暖かさを感じ、躯に生気が 戻ってくるのが分かった。 躯を拭いていると、風呂場のドアが小さくノックされた。
「大町君、着替え、ここに置いておくから。もう、着る物ないんだから、冗談じゃなくっ て、これ、着なくちゃだめよ」
　いつもの風呂上がりよりも心地よく暖まった感じがして、宮浦日向子の陽気な声に、僕 は「はーい」などと答えてしまった。 宮浦日向子が、向こうの部屋の方まで、キャハハハハという長い笑い声とともに遠ざか って行った。 どうやら茶の間の母娘が、ドジな僕の話題で盛り上がっているようだ。 風呂場のドアを開けると、床に白いスポーツ着のような衣服が、丁寧にたたんで積んで あった。そして、僕の脱ぎ捨てた濡れた衣類は、周囲を見回してもどこにも見当たらなか った。
「ねえ、ごめん。下着がないのよ。男物の。だから、下着なしで履いてよ」
　茶の間から宮浦日向子の声が飛んで来た。 確かめてみると、白いＴシャツと思われたシャツも、レンガ色のジャージーのトレーニ ングパンツも、どちらも明らかに女物だった。着てみると、シャツは辛うじて腹を隠す丈 しかないし、トレーニングパンツの裾は向こう脛までしか届かない。 それでも、衣服を身にまとうことが、こんなにも暖かいものなのかという実感がわき上 がるばかりで、これっぽっちも不満な気持ちは起こらなかった。
「着たら、こっちにおいでよ。熱いお茶が入ってるよ」
「すみません」と言いながら、僕は廊下を隔てた茶の間に入って行った。 小さな座卓を囲んで、宮浦母娘が笑いながら向き合っていた。宮浦日向子と母親の間に 畳地の座布団が敷かれ、黙っていてもそこに座れと言う、それが合図だった。
「本当に、ありがとうございました」
　僕は、母親とも宮浦日向子ともつかず、もう一度頭を下げた。
「あら、良かったわねえ、ようやく血の気が戻ったみたい」
　僕の躯が感じていることは、そのまま宮浦日向子の母親の観察結果になったようだ。
「うん、合格」
　宮浦日向子が、親指と人差し指で作った輪を、僕に向かって突き出した。 すぐに、母親が腰を上げた。何かの農作業が残っていて、それを片づけてくると言うの だ。 用意されていたお茶を飲むと、熱い液体が喉から胸へ、そして胃袋にまで入って行くの が分かった。 フフ、と宮浦日向子が笑った。

「そうかあ、黒俣で来たんだあ」
　宮浦日向子が、自分自身に語り掛けるように言った。
「で、どうだった？　オンナのカラダを感じた？」
　同級生の宮浦日向子に言われたその一言で、僕はくらくらと頭に血が上り、気恥ずかし さで一杯になった。 僕よりは幼いと思っていた宮浦日向子に、「オンナのカラダ」というあの老教師の卑猥 な一言を、平然と口にされただけで驚いてしまった。 宮浦日向子は、僕が考えていた以上にしたたかだった。
「大町君」
　その呼びかけさえ、きっと僕の思い込みに痛烈なしっぺ返しを食らわせる前兆があるよ うだった。
「それ、私の中学校時代の体操着だよ」
　やっぱり、そうだった。額から頬にかけて、ボワッと赤らんでいく自分が意識できた。 言いながら、また宮浦日向子はキャハハハハと笑い声を立てた。 かなわない、と思った。
「本当はね」
　宮浦日向子が、急に声をひそめて秘密めかして話しだした。 宮浦日向子の話は、面白かった。 「気を悪くしないでね」という一言から始まったのは、宮浦日向子にはほぼ将来を約束し たようなボーイフレンドがいて、その人物がこの黒俣地区の一歳年上の幼なじみで、別の 高校の野球部に通っているという事実からだった。 気を悪くしないで、と言った背景には、僕のこの遠出が、黒俣とか「オンナのカラダ」 とかいう言葉そのものが持つ怪しげな動機ではなく、もっと直接的に宮浦日向子自身に会 いに来たのではないか、という推察が元になっていた。 きっとどこかでそんな気持ちがなくはない、半分ぐらいはそうだった、と思った。 しかし、僕の方は、まったく逆のことを考えていた。 学校でほとんど会話を交した経験すらなかったのに、今日、会ったその瞬間からの宮浦 日向子の開けっ広げな親近感が、かえって彼女自身の僕に対する特別な見方とさえ感じら れていた。いつも怒ったように決して視線を上げることなく、陰気に話す学校での宮浦日 向子が、ここで会った瞬間から、想像以上に僕に親しげに話し掛けてくれる様子には、彼 女の僕への特別な好意があるのではないか、と思っていたのだ。 ところが、宮浦日向子は、僕が勝手に学校で観察した宮浦日向子像とは、まったく異質 な人物だった。 宮浦日向子に心に決めた大切なボーイフレンドがいると聞いたことで、僕はいっぺんに モヤモヤが晴れたような気持ちになった。 宮浦日向子のボーイフレンド、僕より一つ年下の野球少年に「ブラボー」と喝采を送り たいほどだった。
「それはいいんだけどさ」
　宮浦日向子はさらに続けた。
「学校で突然、黒俣って自分の所の地名を言われた時には、すごく恥ずかしかった。でも ね、実を言うと････」
　宮浦日向子のボーイフレンドの野球少年は、彼女に言わせると、ものすごいエッチで、 助平で、老教師が学校で指摘したような命名の由来を、中学生時代からしきりに彼女に聞 かせていたのだそうだ。野球少年がそれらの情報を仕込んでくるのは、大人たちの酒宴で の冗談まじりの会話からで、大抵の大人の男たちが酒を飲んでするのは、好色話と相場が 決まっているようだ。 いつも厳格な僕の父は、家庭で見せる以上に厳格な学校教師のはずだったが、その父で さえ、以前友人たちを招いた我が家での酒席で、おずおずとではあっても好色な友人たち との冗談につき合っていた。 それは、僕の小学生時代のことで、母親は慌てて僕を子供部屋に追い立てたが、酔って いる大人たちの哄笑とヒソヒソ声の不思議なうねりが、今も耳のどこかに残っている。 宮浦日向子は、僕の許容能力よりもさらに大胆だった。
「黒俣って、分かってるでしょ。ここに毛が生えていることで」
　言いながら、宮浦日向子は自分の紺色のフレアスカートの下腹部を指さし、そんな光景 を目の当たりにすることのなかった僕は、それだけでドギマギしてしまうのだった。 なんとかいう地名はこのあたり、なんとかはここ、知っている地名、聞いたことのなか った地名を出すたびに、宮浦日向子は自分の躯のある部分をわざわざ指さしてくれるのだ った。 「ふうん」と納得する地名、そうでない地名が半分ずつ告げられた。 なんだか宮浦日向子は、彼女が「トオル君」と言う野球少年から吹聴された情報を、ま るで自分自身が聞いた時に感じた戸惑いや衝撃をそのまま再現するように、僕に話してい る感じだった。
「でもね、原田先生、まるで美人ケ谷こそオンナの核心みたいな話し方だったでしょ、あ れって全然違うんだよね」
　宮浦日向子が、十歳も二十歳も年上の女に見えた。
「大町君、サネって言葉、知ってる？」
　とりあえず僕は、「さあねえ」と冗談を言い、その実、女性器の核だということを知っ ていた。現実に見たことがなくても、読んだ小説や本や辞典の中にある、性に関する情報 を見逃しているはずもなかった。 予想通り、宮浦日向子はギャハハハと大笑いし、真面目なだけなのかと思ったら結構面 白い人なのね、と僕を慰めてくれた。 その段階で、宮浦日向子がすでに野球少年との性体験を持っているのだろうことが想像 できた。僕みたいな「頭でっかち」と、宮浦日向子はちょうど対極のタイプの人生を歩ん でいるんだ、と思った。
「倉実のミの字は、サネだよ。分かってる？」
　僕は、黙って頷いた。 大らかな宮浦日向子の性に関する感受性を羨ましいと思った。
「でね、私なんか、黒俣の生徒って言われた方がまだマシだったの。もし、倉実の生徒っ て言われたら、立ち直れなかったかも知れないのよ」
　半分ぐらい、納得した気分になっていた。
「家からほんの百メートルぐらい上った場所にね、倉実温泉って旅館があるの」
　やっぱり、そうだった。倉実温泉は、ここからすぐだった。
「倉実はなぜ、クラミって言われるか？」
　まるでクイズを出すように、宮浦日向子が僕に尋ねた。
「実はサネだし、倉は何だろう」
「ヒント。ここは黒俣です」
　まったく分からなかった。倉という字が意味するものがあるとすれば、実を溜め込む場 所の意味だろうかとも思ったが、見当違いに決まっている。
「降参する」
　僕は言った。
「答えはねえ、黒俣に隠れて暗いんだよ」
　万歳、と叫びたくなるほど、宮浦日向子の、あるいは野球少年が彼女にした解答は、ど んぴしゃりと来る感じがした。 「暗い実」という、僕が想像していたものよりももっと卑猥で、もっと密やかに楽しい命 名なのに違いなかった。
「ああ、そうなんだ」
　僕はすっかり、宮浦日向子と共犯関係のこの話題に狂喜してしまう気分だった。
「それでね、倉実温泉の裏手にね、倉実川が流れていて、ちょっとした溜りのような場所 があるの。そこだけが、どういう訳か川底の岩が丸くえぐれていて、深い場所があるの。 壷みたいな、穴みたいな場所があるの。分かる？　それが、黒俣のすぐそばにある穴なの」
　今度は、さす指を遠めにしながら、宮浦日向子は自分の股間に目配せをした。 僕はあっけにとられ、放心状態になった。それから、じわじわと、まるで懐かしい思い が込み上げるように、ゆっくりと自然に湧き上がる笑いの中に放り込まれてしまった。
「知っている。倉実温泉は知っている。昔、子供の頃に来たことがあったんだ」
　ヒイヒイと、自分の腹のケイレンがさらに笑いを誘発する。 宮浦日向子が、目の前で、突然感情のトーンを変えてしまい、勝手に訳の分からない笑 いの中に入り込んでしまった僕を見て、きょとんとしていた。
「僕はね、僕は、あの滝壺で溺れたことがあったんだ」
　ヒイヒイと、僕の肩は笑い、膝が笑い、背中まで笑いだしてしまった。
「あんな小っちゃい場所で溺れる子なんて、聞いたことがないよ」
　宮浦日向子が、とうとう僕につられて、ククク、アハハと笑いだしてしまった。
「大町君、もうあの穴にはまって溺れた経験があるんだ。そんなにすごいこと、自分で経 験してたことさえ、今まで知らなかったんだね。アハハ、アハハ、アハハハハ････」
　もう、十年も前から知り合いの関係だったような気分になって、宮浦日向子と僕は、お 互いの目を見ながら、涙を流して笑い転げてしまった。

　さっきの大雨が嘘のように、外に明るさが戻っていた。そしてその明るさが、夕暮れを 告げる最後の輝きだということを、雨に洗われた深い山の暗い緑が告げていた。 腰骨がすごく立派に発達した宮浦日向子に、なんだか僕は、僕の中の隠していた鬱屈を すべて晒け出してしまったような爽快な気分だった。 経験豊富な、という意味で、「おばさん、ありがとう」と言いたい気分だった。
「ありがとう、宮浦さん」
　僕は、本当に心の底から言った。 絶対に滑稽に見えるはずの、つんつるてんの女子用体操着に身を包んだ僕の姿の滑稽を 、やっぱり宮浦日向子は腹を抱えて笑うのだった。 宮浦日向子の家に、どうしてもう少しマシな男物の衣類がなかったのか、答えは簡単に 返ってきた。もう十年も前に父親を亡くした宮浦家は母子家庭で、母親と宮浦日向子の他 には、十歳も離れた都会に働きに出ている姉しかいないのだった。
「それにしても、今日、僕が上ってきたこの道を、毎日自転車で通学しているんだろ？　す ごいね」
　正直な感想だった。 僕は、何時間かかって、家からここまでたどり着いただろう。 宮浦家を出る時に、ちらっとのぞいた柱時計は五時半を指していた。きっと、三時間ぐ らいをかけて、僕は目に見えないスロープをここまでやって来たはずだった。 宮浦日向子は言った。下りの行きは四十分、上りの帰り道は一時間十五分で駆け上がる のだそうだ。
「すごいな、信じられない」
　僕は心底感心して言った。
「馬鹿ねえ、大町君。そんなこと言ったら、このへんの人、みんなオリンピック選手にな っちゃうじゃないの」
　宮浦日向子の中学校時代の体操着のお古を着て、僕は帰りのペダルの第一歩を踏み込ん だ。 アハハハ、と背後に聞こえる宮浦日向子の声に後押しされるように、僕のペダルのたっ たひと踏みは、五十メートルも百メートルも僕の躯を運んでくれるのだった。 すぐに振り返って、もう一度手を振った。すでに遠くなった宮浦日向子がまだ笑い転げ ているのが見えた。 自転車の前篭に、濡れてぐちゃぐちゃになったスケッチブックが、雑巾のようにへこた れていた。
　夕暮れなのに、風は青く透明で、南に見える空には、ところどころ雲間から差す光の帯 が架かっていた。 まるで嘘みたいに加速のつく自転車を駆って、僕は自分の魂までも自由に飛んでいる気 分に浸っていた。 ハンドルを握る腕や、ペダルをこいでいる太腿に、僕のぐつぐつした血が通っている血 管を感じた。 病気と名指しされ、僕のすべての罪を背負っているかのような肺臓は、高鳴る心臓の鼓 動とバッテリーを組んで、息づいていた。
　ベニヤの白いキャンバスや絵のことも、安田の死も、黒俣のことさえも、疾走する僕の 心になかった。 僕は、佐藤まゆみが好きだ。 そのことだけが、僕のペダルを踏み込む理由のようだった。 佐藤まゆみに会いたい。 目に見えないスロープが、どんどんと自転車を加速させていくように、佐藤まゆみに会 いたい気持ちが膨らんでいった。 南に真っ直ぐ下る僕の自転車は、そのまま僕の心の勢いのように、きっと何物にも止め られない情熱と危険とイノセンスを乗せて疾走するのだった。