2．ひとごろし

　夏休みを前に、秋の文化祭、県展への出展スケジュールの確認など、最後の美術部の集 まりがあった。珍しくほとんどの部員が出席した。二十数名の、結構大所帯だということ を初めて知った。 安田や横井久美子、佐藤まゆみの顔も見えた。 安田が僕を買いかぶっていることを知ってから、僕が彼と会うのは初めてだった。珍し く、あるいは初めて、彼の方から僕に声を掛けてきた。部室の片隅まで僕の肩に手を置い て誘い出すと、他の誰にも聞こえないような小声で語りだした。
「大町君、夏休みの間に絶対何か描いておけよ。少なくとも百号以上のヤツ。県展に出す ようなヤツをさ」
　安田は僕の目を見ながら「な、な」、と念を押すように言った。がっちりとして、僕よ りもはるかに大きな体格の安田が背を屈めながら、腹から絞り出すように言うのだった。 僕は、大きな安田に覆い被されるような姿勢で話しかけられた威圧感もあって、あまり いい気分ではなかった。 まるでスポーツ万能のような体格をしていながら、血の気のないどす黒い顔に、落ちく ぼんだ瞼の下の異様に光る目を血走らせながら、安田は何かを思いつめたように言うのだ った。
「いや、百号の絵なんて描いたことがないし、しばらく描ける気もしないよ。それに、と くに描きたいとも思わない」
　僕は安田に告げた。 ぽつりと「そうか」と言い残し、安田が背を向けた。
「安田君、あの絵、いいね。あれ、好きだよ」
　部室の反対側に向かって歩いて行く安田の背中に、少し陽気な調子で僕は声をかけた。 僕の左手で指さす方向に、例の去年の県展で入選した安田の二百号の絵が壁に掛かってい る。 安田はゆらりと向き直り、再び僕の方を見た。
「いいって、どこがいい。何がいいんだ、あの絵の。分かったようなことを言うな」
　安田の両手の指先が震えていた。野太い声が興奮で裏返りそうだった。 僕は少しあっけにとられる思いだった。せっかく安田が声をかけてくれたのだからと、 気軽な返礼のつもりでかけた言葉だった。部室のあちこちで思い思いに交していた雑談の 渦が、一瞬にして停止していた。
「言ってみろよ、その根拠を」
　安田の僕に向けられるべきはずの視線が定まっていないように見えた。床を這ったり、 天井をさ迷ったり、僕に戻ったり、あるいは誰かに救いの手を求めているように浮遊して いる感じだった。 僕は、安田の中の狂気のようなものに恐怖を感じながら、同時に今目の前にしている安 田の行動は、どこか見せかけという気持ちもあった。自分でも驚くほど冷静だった。
「根拠はないよ」
　普通に話した僕の声は、コンサートホールのアリアのように部室中に響いていた。 安田は部室を出て行った。横井久美子が、何事が起こったのかと安田の後を追って行っ た。 佐藤まゆみが、僕に近づいて言った。
「何したの、カツミ〜。こいつめ、何か悪いことしたでしょ、安田さんに」
「何も」、と答えながら、僕は無性に腹立たしい気分になっていた。 安田が何に苛立って、僕にあんな言い方をしたのか、僕にはうすうす分かる気がした。 僕は、誓って、僕自身が彼の苛立ちの原因だとは思っていなかった。それは、僕という存 在を借りた、安田の勝手なパフォーマンスだと直感していたのだ。
「もう、しょうがないヤツだな、カツミは〜」
　いつも小気味よく聞こえていた佐藤まゆみの独特の言い回しが、なんだかすごく耳障り に聞こえた。僕は、思わず佐藤まゆみの左頬をひっぱたきたい気分だった。右手が出かか った。 僕の態度や顔色が変わったのを、きっと佐藤まゆみは見逃さなかったのだろう。一瞬に して、彼女の顔から笑いが消えた。 佐藤まゆみが、屈託のない伸びやかな存在から、いきなり小さくつまらないものに見え た。そして、目の前にいる佐藤まゆみを、そう見ている自分の視線を感じた。僕には時々 、そんなことが起こる。僕自身が感じるのは、そうやって自分自身が観察者であるという 意識と、観察者であるということに陶酔している自分がいる意識とがないまぜになってい ることだ。 気がつくと、僕の目の前を一歩も動かず、首をうなだれて立ちつくしている佐藤まゆみ の伏せた顔の下から、ぽろぽろと涙が流れ出ていた。 いつの間にか、部室の人影は数人だけになっていた。きっと大部分の部員が、部室を支 配している奇妙な空気のために、緊急避難していったに違いなかった。最後に、泣いてい る佐藤まゆみに気づいた数人の女生徒が、まるで見てはいけないものを見てしまったかの ように、慌てて部室を去って行った。 目の前で立ちすくむ、細い棒っきれみたいな生き物は、僕になんとかしてくれと訴えか けているようでもあり、どこかに去れと命令しているようにも見えた。
　何かできることが あるなら、僕は抱きすくめたい気持ちもあったし、突き飛ばしたい衝動にも駆られた。 結局、僕はその場を後ずさりし、部員たちによって描き溜められたキャンバスが、保管 というより廃棄されたような棚の上に腰を下ろした。僕の数枚の二十号も、その棚の中に 立てかけられ、僕の気まぐれによって再び何かが描かれるのを待っている。 不思議なことに、佐藤まゆみは、物音ひとつ立てずに泣いていた。すすり泣く声さえ、 聞こえてこなかった。耳を澄ませれば、彼女の頬から伝わり落ちる涙が床に落下する音が 聞こえてきそうだった。
　どうして、女たちが突然のように僕のまわりで泣きだしたのだろう。どうして、あたか も僕自身がその元凶のように、物事が展開していくのだろう。 原因は確かに僕のようでもあり、しかしよく考えてみると、先日の公園での横井久美子 の涙も、たった今目の前にしている佐藤まゆみの涙も、結局安田に端を発している気がし た。安田のヒステリックな僕への買いかぶりや、過剰なまでの自己卑下が、僕にはちょっ と理解できなかった。 横井久美子が言った、他人を見下しているような僕の態度という指摘を、否定する気持 ちはない。彼女や今目の前にいる佐藤まゆみ、そして宮浦日向子の出現によって、自分の 優越化させねばならぬ二年間の意味さえ揺らぎはじめていた。しかし、いつの間にか習性 のようにもなってしまった僕の話し方や、僕の他人への視線は、なんだか変える術もない と思っていた。
　佐藤まゆみは、相変わらず一歩も動かず、ひとつの物音も立てていない。 部室で二人きりになったのは、これが初めてだった。 五分経ち、十分が過ぎ、果てしなくこの沈黙の時間が続くように思われた。
　不意に、入口のドアが開く音がした。僕はドキリとし、その瞬間に自分のドキリの意味 が、佐藤まゆみと二人きりだった時間のせいだと思った。 少し息を切らせた横井久美子が、つかつかと僕の方に近づき、横目で佐藤まゆみを気に しながら言った。
「安田君が言ってた。大町君に謝っておいてくれって」
　僕は黙ってフンフンと頷いたが、納得したという訳ではなかった。それでも、被害、加 害という関係性で言えば、佐藤まゆみが良い例で、僕の立場はどういう訳かいつの間にか 加害した者のようだった。
「何を謝っているんだろう、安田君。それに、僕の何に腹を立てたんだろう」
「だからそれは････」
　言いかけた横井久美子を遮るように、佐藤まゆみが急にその場に座り込んだ。 く、く、く、と背中が波打った。そして、再び起き上がると、一気に大笑いした。目の 縁に濡れて貼り付いた睫毛は、それまでもずっと続いた笑い過ぎで止まらなかった涙の証 拠のようにさえ見えるほどだった。
「なあんだ、安田もダメだね。謝ることなんかないのに。冷血動物なんだよ、こいつ、こ のカツミの野郎」
　いつもの冗談めかした佐藤まゆみの口調だった。しかし、声は、いつものように少し煙 ったくて低いものではなく、詰まった喉を無理矢理こじ開けるような引きつった高音だっ た。
「エリスで話そうってことになったの、安田君と。どうする？大町君、来る？」
　横井久美子が言った。
「安田君には言ってないけれど、彼、大町君とは絶対に話してみたいって思ってるよ」
「いや、僕はいいよ。話すことだって、別にないもの」
　明らかに、横井久美子の期待に背く答えを僕はした。なぜ、彼女は安田のことに、そん なにムキになるのか不思議だった。
「じゃ、佐藤は？」
　佐藤まゆみは黙って首を横に振った。 部室の隅に置いてあった鞄を手にすると、横井久美子は再び出て行った。 がらんとした部室に、また二人きりの時間がやって来た。もう帰ってしまおうと思わな くもなかったが、さっき棒っきれみたいになってしまった佐藤まゆみを黙っておいてはい けない気もした。
「そんなにひどいのかな？　僕って」
　佐藤まゆみは、僕の言葉を聞いていなかった。
「横井さんのこと好きだね、大町君」
　俯いたまま、佐藤まゆみは声をしぼり出した。 僕は、確かに横井久美子のことが好きらしいのだが、同じぐらいに目の前の佐藤まゆみ に惹かれていた。いや、自分の恋愛感情というものを仮に色付けしてみたら、まったく異 色の気持ちなのかも知れない。 それにしても、佐藤まゆみは、いつもこうして何かを断定的に喋る。すでに彼女は、僕 が横井久美子を好きだと断定しているのだ。数日前の公園で、横井久美子に好きだと言っ た自分を思い出していた。
「あきらめろ、カツミ〜。横井さんはね、僕らが入学した時から安田君と付き合ってたん だよ〜だ。僕ら美術部で知らないヤツなんかいないんだぜ」
　意外な言葉だった。それと同時に、今日も安田の後を追って行ったり、これまでも僕と の会話の中でしきりに安田を気づかっていた横井久美子の行動が、そのことを証明してい るようにも思えた。ほんの少しばかり、僕の心に喪失感のようなものが漂った。
「ひとごろし〜」
　佐藤まゆみが、低くかすれた声で唸った。冗談だと思った。またいつもの癖で、あらぬ 方向に話をすっ飛ばしてしまうのだと思った。 佐藤まゆみは首を垂れ、そのまま真っ直ぐに僕の方に進んで来た。 コントロールの効かなくなった壊れたロボットのように、まるで意志を持たない人間に なったかのように、ゆっくりゆっくりと僕に近づき、彼女の額は、立っている僕の心臓の 真上に突き当たって静止した。
「ひとごろし〜」
　再び、押し殺したようなくぐもった声が聞こえた。
「なんだよ」
　僕はうろたえ、それだけを言うのが精一杯だった。
「やせっぽっち」
　佐藤まゆみが唸った。
「きょじゃくたいしつ」
　また、唸った。
「れいけつどうぶつ」
　それも、佐藤まゆみのかすれ声だった。
「ばかやろう」
　彼女の荒っぽい口癖だ。 佐藤まゆみはまた泣いているのかも知れない、と思った。
「人殺しって、なに、それ」
　僕らは二人ともだらりと両手を下げたままで、誰か見物客がいたら、きっとそれは、か ぶと虫の角の競り合いのように見えたに違いない。 僕はようやく両手を上げ、佐藤まゆみの両腕を掴んだ。
「人殺しって、なに、それ」
　テープの再生ボタンを押すように、僕は意識して同じセリフを同じ抑揚で言った。 僕に腕を掴まれて、少しばかり躯の自由を失った佐藤まゆみは、それでもなお、僕に突 進して来た。 すらりと伸びた足が美しくて、痩せぎすだとばかり思っていた佐藤まゆみの二の腕は驚 くほど柔らかく、ふくよかで、もっと柔らかな彼女の胸の塊が僕の胸に感じられた。 僕は、いつものように、佐藤まゆみに見透かされてしまっている自分を意識した。 僕がたった今したいと思っているのは、彼女の胸に掌を押しあてること、彼女の唇を自 分の唇で被ってみたい、ということだ。
「キス、したいでしょ」
　本当に、見透かされていた。
「キス、していいよ」
　顎先から、佐藤まゆみが僕を見上げていた。相変わらず彼女の両手はだらりと下に垂れ 下がったままで、無抵抗な躯を丸ごと押しつけながら、そのくせ急にいつもの冗談めかし た口調で、佐藤まゆみは囁くのだった。 僕は、佐藤まゆみの唇に、それも一種のキッスに違いない程度のキッスをした。そして それは、結核を患い、治癒したばかりの人間の、少しばかり後ろめたい気分をどこかに引 きずって、彼女に吐息がかからぬよう、無意識に唇を結び、呼吸を止めてしたキッスだっ た。 それから僕は、両腕を佐藤まゆみの首に巻きつけるように、彼女を抱き締めてみた。ち ょっと力を強めると、ぎゅっという音なのか声なのかがした。
「人殺しって、どういう意味？」
　僕は、無抵抗に抱き締められたままの佐藤まゆみに再び尋ねた。
「ああ、あれ。冗談かも知れない。でも、半分本気だった」
　佐藤まゆみのくぐもった声は、僕のシャツの胸の部分に口が押し当てられた体勢のせい だった。その声は、僕の体温よりも熱い吐息となって、心臓の鼓動をますます加速させた 。肺炎や結核から恢復した僕の肺は、今やまったく機能していない気がした。僕は、心臓 のみで生きる動物だった。
「だったって？まるで過去の話みたいじゃない」
　僕は、佐藤まゆみが二度と棒っきれみたいにならないよう、優しく問い直した。
「キミに無視されると、私、死んじゃいそうになるんだ」
「だから、人殺しになるの？」
　僕は、無性に佐藤まゆみが愛しく思え、そんな幼稚な彼女の言い分の可笑しさもあって 、思わず、彼女をこのまま羽交い絞めにして殺してしまいたい気分になった。
「私が死んじゃって、例えば明日、自殺したって話を聞いたら、カツミのせいだからね。 キミが私を殺したんだからね。キミは人殺しなんだからね」
　彼女の初恋なのか、何度目かの恋なのかは分からない、僕だって佐藤まゆみの気分は分 かる。分かるよ、佐藤まゆみ。
「そんなに僕のことを好きでいてくれたなんて、知らなかったよ」
「嘘つけ。知ってたくせに。でも、キミは横井さんが好きなんだ。分かってるよ、私。彼 女もキミのこと好きだよ。絶対」
　僕もそう思う。佐藤まゆみが僕のことを好きだということも、横井久美子がそうである ことも、両方疑ってはいない。 でも、こうやって躯を密着させ、涙と鼻水と吐息にまみれた関係を持ったのは、佐藤ま ゆみ、キミが初めてだ。 僕らは、ボクサー同士が躯をくっつけ過ぎてレフェリーからブレイクを命じられたよう に、タイミング良くどちらからともなく離れ、傍にあった椅子に座り込んだ。 腰を下ろしてみて初めて、途方もなく体力を消耗している自分に気がついた。 めったに部室で椅子に座っている光景を見たことはないが、何か考え事をしている時の 佐藤まゆみの癖なのだろう。彼女は少しばかり開き加減の膝の上に両肘をのせ、小さくて 白い顔を掌の上にあずけている。ちょっと縮れて赤茶けた長髪を後ろに束ねている佐藤ま ゆみの額のあたりの前髪が、さっきの抱擁とも言えない行為で微かに乱れている。
「そんなことがなければいいし、もし万が一あっても、もちろんカツミのせいじゃないん だけど････」
　佐藤まゆみは、今度は僕の目を見ずに続けた。
「安田君、死ぬんじゃないかなって思う。きっと。そうじゃなければいいけど、死ぬ気が する。全部が全部、カツミのせいな訳ないけど、ちょっとだけ大町カツミが原因になる気 がする」