■マル・ウォルドロン逝く

　昨日の朝刊には詩人の吉原幸子さん、今朝はジャズピアニストのマル・ウォルドロンの訃報があった。寒い時期にヒトが死ぬのは決してマズいことじゃない。熱帯夜の通夜なんてものは、屍の腐乱を気遣う悲惨さがつきまとうのだから。
　このHPのどこかでも書いたことがあるが、僕には少々悲痛なマル・ウォルドロンとの思い出がある。およそ10年ほど前、国分寺のとあるジャズクラブにウォルドロンが突如出演することになった。その店の立ち上げをデザインやネーミングなどの面で全面バックアップした僕に、若い店主が「英語ができるし、写真も撮れそうそうだから、当日のカメラマンになってくれませんか」と頼まれたのだった。当時愛用の古いニコン持参で駆けつけた。演奏が始まる前にウォルドロンに近づき、「店主が大変に感激している。その名誉を写真に残したいというのでカメラマンを仰せつかった。多くは撮らないが、演奏中にも数回シャッターを押したいのだが、いかが？」と申し出た。ウォルドロンはしげしげと僕の手元のカメラを眺め、「結構古いタイプだな」と言ってから、とりあえずの了承をしたのだった。通訳兼マネイジャーなのか奥方なのか、彼の脇に中年の日本人女性が並んでいた。彼女は微笑みを浮かべながら「どうぞご遠慮なく」と言った。
　狭い店内に通常の2倍以上の客がすし詰め状態となって、ソロ演奏が始まった。セミグランドのピアノの上に金ピカに光る高級腕時計と、確か演奏するには少し邪魔になるほど大きい指輪を外してから、ウォルドロンはゆっくりと鍵盤に向かうのだった。すぐにあの有名な「レフトアローン」も演奏された。
　ようやく店内の空気がこの大物ピアニストの場違いな存在に慣れ始めた数曲目で、僕は1度シャッターを切った。ストロボの光がウォルドロンの艶やかな褐色の横顔に反射した。2度目のシャッターを切った時、ストロボが発光せず、僕はやむなく3度目への充電時間をおいた。そして、3度目。ウォルドロンは突如演奏を止め、鍵盤を見据えたままの姿勢で「Stop it!」と低く叫んだ。僕の心臓も止まりそうになった。
　演奏終了後、僕は再びウォルドロンに近づいた。詫びを言うためではなかった。「だってイイって言ったじゃないか」という抗議をするためだった。何事もなかったかのようにくつろいでいるウォルドロンに「素晴らしい演奏でした。ウチにあるレコードを持ってくるんだった」と、とりあえず心からのお世辞を言った。当日の演奏は、正直あまり良くなかった。すると、たった一言だけウォルドロンがコトバを発した。
「お前のカメラは古過ぎたのだ」
　脇の女性が日本語で補足した。
「新しいタイプのものだとシャッター音がだいぶ静かよネ」
　それから、事前に了承したはずなのに申し訳ないといった謝罪を受けた。ウォルドロンは素知らぬ振りだった。握手だけ求めて自分の席に戻ったが、どことなく釈然としない気分は残ったままだった。当日撮影したモノクロ写真は、確かネガごと店主に進呈してしまったはずで、残念ながら僕の手元には残っていない。悪い写真じゃなかったが、もしソレを見たら、きっとあの時の心臓の凍る思いも甦るに違いない。
●今日の１句　　客死地がベルギーという意外ジャズも死んだのだ
●今日のもう１句　　閃光にピタリ止むなり低き鍵盤の律動